◇-我が輩は凡庸である-山口あずさ(4/5-12:43)No.456 ┗Re:我が輩は凡庸である-満月(4/5-15:23)No.457 ┗Re:我が輩は凡庸である-山口あずさ(4/6-11:23)No.459
| 456 | 我が輩は凡庸である | 山口あずさ | 4/5-12:43 |
我が輩は凡庸である。 我が輩の凡庸の定義は、今のところ以下のようなものである。 「無知に起因するおめでたさ(=無神経さ)」である。 幸福な人は往々にして凡庸である。 不幸な人は自らの不幸を考えねばならないという点において、無知を免れ、少 し非凡な存在となる。 が、不幸な人が幸福な人を見て、あなたは幸福故に何も分からないと断罪する とき、すでに不幸な人は不幸に於いて凡庸である。 不幸な人と幸福な人は同じ人間であるが、彼らの陥る凡庸には差がある。 幸福な人は幸福において凡庸でいられるが、不幸な人は不幸に於いて凡庸で居 続けるということになる。 わたしが思うに、幸福な人が自らの凡庸に気づけば、幸福な人は幸福という凡 庸から少し免れることができる。そしてその人は、その凡庸さ故の罪(=戦争 に代表されるような人災、あるいは差別の類)を犯すことから免れる。 また、不幸な人が、不幸であり続けるということの凡庸さに気づけば、その人 は単に幸福である人を超えて、より大きな幸福にたどり付くことができるよう に思われる。 以上、凡庸についての凡庸な見解である。 ところで、思うに、われわれが凡庸であっても、凡庸の罪から免れていられる ような世界が実現すれば、われわれは「のほほん」と幸福にいられる、かもし れない。 3000年後ぐらい? ああ、凡庸。 | |||
| 457 | Re:我が輩は凡庸である | 満月 E-mail URL | 4/5-15:23 |
| 記事番号456へのコメント 不幸と幸福の定義、また、不幸vs幸福という対置が本当に 可能なのか、つまり完全に不幸だけの人、幸福だけの人が はたしているのかという問題もありますね。 なにごとも白vs黒とはいかないのが生きてる人間の実状じ ゃないでしょうか。神が死んだ死なないについても同じ感 想です。>しらいさん | |||
| 459 | Re:我が輩は凡庸である | 山口あずさ | 4/6-11:23 |
| 記事番号457へのコメント 満月さんは No.457「Re:我が輩は凡庸である」で書きました。 >不幸と幸福の定義、また、不幸vs幸福という対置が本当に >可能なのか、つまり完全に不幸だけの人、幸福だけの人が >はたしているのかという問題もありますね。 はい。わたし自身が幸福と不幸の間を行ったり来たりです。 肝心なことを書き忘れていました。 じぶんじしんが一番無神経なのだと、毎日気づかされます。 >なにごとも白vs黒とはいかないのが生きてる人間の実状じ >ゃないでしょうか。神が死んだ死なないについても同じ感 >想です。>しらいさん それこそうまく言えないのですが、神さまなしで深淵を覗く体験をし、この世 界に留まるという強い意志を持つことの大変さを思っています。 まったく心配のない話で(ここに書くべきではないのかもしれませんが)、わ たしは白目の毛細血管が切れてウサギ目になりました。(←前にも一度同じ状 態になって、すぐ治ったので、今回もすぐ治ると思います) また単純な感想を書いてしまいますが、言葉にできなかった分、血が出たのか なぁと思ってます。 | |||