じぶんでじぶんをしつけるメッセージ

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◇-癒し-nolphin(2/25-17:39)No.279

 ┣Re:癒し 1/2-山口あずさ(2/26-12:42)No.284

 ┗Re:癒し 1/2-山口あずさ(2/26-12:43)No.285

  ┗記憶1-nolphin(2/26-16:35)No.286

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   ┗Re:記憶1-山口あずさ(2/28-01:14)No.294

    ┗肯定-nolphin(3/1-12:59)No.301

     ┣Re:肯定 1/2-山口あずさ(3/2-12:55)No.302

     ┗Re:肯定 2/2-山口あずさ(3/2-12:56)No.303

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       ┗Re:ふたたび、記憶について-山口あずさ(3/3-22:57)No.308

        ┗たっちゃんのこと(畏れ多いな。)-nolphin(3/4-10:25)No.309

         ┗Re:たっちゃんのこと(畏れ多いな。)-山口あずさ(3/4-19:10)No.310




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279癒しnolphin 2/25-17:39

 鈴木水南子さんの言葉を読みながら、ぼくは「癒し」について考えていました。
鈴木さんはおそらく自覚的に(深い意味での)「癒し」を実践されているように思
う。

 ぼくは、最初に読んだゆきこさんの手紙の衝撃が忘れられません。インターネッ
トの匿名性ゆえ、「本物」かどうか本当のところはわからないのだけれども、逆に
ぼくはゆきこさんの手紙には匿名性ゆえの真実を感じる。
 あの手紙は「癒されたい」という、人間の持つ当たり前の欲求の叫びであるよう
に思う。これは、クリスチャン・ジメールという歴史家のアウシュビッツに関する
記述なのですが、通じるところがあるように思うので、変かもしれないのですが引
用してみます。

 どんなできごとも語り直されることは不可能である。しかし、物語が実在を裏切
り、〈語りえない〉と呼ばれるものを生きて体験してきたひとびとの記憶を裏切る
場合は存在する。そうしたとき、唯一の正当で信じるに足る真理とは、金切り声な
のである。・・・物語は考えることのできないものの説明や合理化ではないのだろ
うか。それは、狂気の標準化ではないのだろうか。物語はつねに言い訳をしていな
いだろうか。

 しかし、ぼくはゆきこさんが金切り声を上げることは理解できても、男たちが金
切り声を上げているとは思えない。男たちが一体何に対して金切り声を上げるとい
うのだろうか? 男性性の、不条理ながら持ち合わせてしまった男性性の、金切り
声なのでしょうか? 

 男たちが「癒されたい」と願い、その願いが女性のさらなる「癒し」を必要とす
る事態を招いているとするならば、恐ろしいことだと思う。

 「癒されたい」と願う少女に対して、宮台先生は「記号化しなさい。強度だけを
信じなさい。」というのでしょうか。それは、「気づく」ことの意味を理解してい
ない言説だと思う。「気づく」ことは容易に拭うことのできない刻印なのではない
のでしょうか? だから癒しは難しい。

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284Re:癒し 1/2山口あずさ E-mail URL2/26-12:42
記事番号279へのコメント
nolphinさんは No.279「癒し」で書きました。
> 鈴木水南子さんの言葉を読みながら、ぼくは「癒し」について考えていました。
>鈴木さんはおそらく自覚的に(深い意味での)「癒し」を実践されているように思
>う。

そうなんです。
どう考えても上下左右どこから見ても、水南子さんの方が山口よりも心が広いとしか
思えない。

> ぼくは、最初に読んだゆきこさんの手紙の衝撃が忘れられません。

ゆきこさんの手紙はわたしにとっても当然衝撃でした。
正直、一人で支えることができず、林洋子さんにどうしましょうと泣き言メールを
送ったくらいです。
金切り声という言い方、とてもよくわかります。
わたしはこのような話をするときに「ソフィーの選択」という映画を思い出します。
アウシュビッツに送られてゆく途中で、ナチの将校(?)に幼い息子か娘かのどちら
かを渡せと選択を迫られた母親(メリル・ストリープ)が、とっさの判断で娘を渡し
てしまう。
後に息子の方も行方しれずになってしまうのですが、このときの「選択」がこの母親
の心を粉々に砕いてしまうのです。
これは癒せない。幼い娘の泣き声は一生涯母を苦しめてやまないのです。
もちろん、この母を責める人はいないでしょう。
命からがらの極限状態なのですから。
が、この母親は誰よりも自分自身に許してもらえないのです。
人間の心は壊れてしまう。
ゆきこさんの心は壊れかけていて、金切り声をあげたのだと思います。
あの文章を書き込むことにも勇気はいったはずです。
わたしは人は他の人の心を壊してはいけない、と思うのです。
これはものすごく強くそう思う。

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285Re:癒し 1/2山口あずさ E-mail URL2/26-12:43
記事番号279へのコメント

> 「癒されたい」と願う少女に対して、宮台先生は「記号化しなさい。強度だけを
>信じなさい。」というのでしょうか。それは、「気づく」ことの意味を理解してい
>ない言説だと思う。「気づく」ことは容易に拭うことのできない刻印なのではない
>のでしょうか? だから癒しは難しい。

nolphinさん、この「気づく」をもう少し説明してもらってもいいですか。
わたしは癒しとは自分自身との和解なのだと思っています。
だから他の人を癒すというのは、その人自身が自分と和解できるよう調停するような
ことなのではないかと思うのです。(って、今書いていて思ったのだけど^^!)

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286記憶1nolphin 2/26-16:35
記事番号285へのコメント
 ぼくは、ここで「ショアーの記憶」という例をあげて考えてみたいと思う。ゆきこさんとアウ
シュビッツとの間には当然大きなちがいもあるわけで、誤解を生みかねない意見かもしれません
が、それをある程度承知の上で書いてみたいと思う。(もっとも、ぼく自身まだ考えぬいたもの
ではないので、ひとつの「印象」ということで了解してもらいたいと思います。)

 フランソワ・リオタールの「文の抗争」という本に次のような記述があります。とても有名な
比喩なのですが引用してみます。

 地震が生物や建物やその他もろもろの物体だけでなく、地震を直接に測定または間接に測定す
るのに使用される器具をも破壊してしまったと仮定しよう。この場合、それを量的に測定するこ
とができなくなってしまったという事実は、大地には途方もなく巨大な力があるという観念を生
き残った者たちの心のなかで封殺してしまうどころか、むしろ増幅させるのである・・・ アウ
シュビッツとともに、なにか新しいことが歴史のなかで発生したのであった(なにものかの徴候
であるほかなく、事実ではありえないものがである)、すなわち、もろもろの事実、いまそして
ここという痕跡をとどめていた証言、それぞれ事実の意味を指示していた記録資料、名前、そし
て最後には、さまざまな種類の文字がむすびあわさって現実をつくりあげる可能性、これらの
いっさいが可能なかぎり破壊されてしまったのである。歴史家は、損害だけでなく、不当な損害
(すなわち「損害を立証する手段の喪失をともなっているような損害」)をも考慮にいれるべき
なのだろうか。現実だけでなく、現実の破壊というメタ現実までをも・・・ アウシュビッツと
いう名前は、歴史認識がみずからの権能に対するたいする異議申し立てにで会う境界を印しつづ
けている。

 リオタールのこの記述はモーリス・ブランショの「災厄のエクリチュール」をふまえてのもの
ですが、的確な比喩であるように思います。
 

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287記憶2nolphin 2/26-16:37
記事番号286へのコメント
 ヘウムノの絶滅収容所ではたった2人のユダヤ人しか生き残らなかった。そこで実際行われていたのを
知るのがこの2人のユダヤ人だけであるというとき、この2人の証言を、その極端に少ない人数ゆえに、
「科学的に真理として」認められないとされうるのだろうか? ショアーを巡る歴史家たちの議論の論点
のひとつはそこにあります。そして、「収容所は存在しなかった」という修正主義者たちの論拠はここに
あります。

 ショアーとゆきこさん、それにかぎらずあらゆる「悲しみ」というものに共通することは、その痛みの
体験者、証言者が限りなく少ないということです。ゆきこさんの痛みは彼女にしかわからない。ゆきこさ
んはその体験をたったひとりで経験した。彼女が本当に実在するのか? 彼女の体験は事実なのか? ほ
んとうに痛みを感じているのか? それは真理として語りえないかもしれない。しかしそれは起こった。
(もちろんショアーとゆきこさんはちがいます。前者はおおむね事実の保証が問題とされていて、後者は
彼女のこころのなかが問題とされている。しかし、しかしです・・・)

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288記憶3nolphin 2/26-16:38
記事番号287へのコメント
もうひとつぼくは自身の体験を書こうと思います。ネット上でこういうことを書くこと自体に矛盾を感じなくはな
いのですが・・・
 ぼくは、ちょうど4年前にある友人を亡くしました。それは本当に突然だったので、ぼくはそのとき、思ったよ
りも平静でした。もちろんお葬式の時には泣いたけれども、こころの底から泣いたわけではなかった。どこかで友
人の死を信じていなかったのだと思います。(死に顔も見たのに、不思議なことです。)
 でもそれから2週間ほどたって、ひとりで街を歩いていたぼくは、その友人は死んでしまってもうこの世界のど
こにも存在しないのだということを、まったく突然に「気づいた」。その時の衝撃は生まれて初めて体験するよう
なショックでした。本当に目の前が真っ暗になった。音も何も聞こえなくなった。全身から力が抜けて立っていら
れなくなった。

 それから、まる1年くらいは廃人みたいになってしまった。4年たったいまでも立ち直ったとはいえないけれど
も・・・ 

 それは刻印です。そうとしかいいようがない。おそらくは一生涯それから逃れられないような気がする。(無神
論者ならなおさらそうですね。)それは暗澹たる予感です。だけど、ぼくは癒しがどこかにあるような気もする。
そういう希望を持っているからぼくは自殺もせずに、本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を観たり、旅行をした
り、友達とくだらない話をしたり、酒を飲んだり、インスタント・コーヒーを飲んだりしながら生きているのだと
思う。無駄なことかもしれないけれど、ぼくはどこかにある「癒し」を探して生きているのだと思う。それはぼく
のこころの内側にあるのかもしれない。どこか遠い余所にあるのかもしれない。あるいは、そもそも最初からない
のかもしれない。でも、探すしか選択肢はないような気がする。(やっぱり、俺って暗いなあ。)

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289記憶4nolphin 2/26-16:40
記事番号288へのコメント

 宮台先生の意見にはたしかに圧倒的なリアリティが「あるような気がする」。でも、ゆきこさんのような少女、それに限ら
ず、セックスワーカーだろうがなんであろうが、それが道徳に由来しようがなんであろうが、みずから体験して感じる痛みと
いうのは感じたとたん、「どうしようもなくなる」。当たり前のことだけれども、痛みは、「感じるな」と命令されても痛い
のです。たとえ「悲しむな」といわれても悲しくて涙は流れるものなのです。宮台先生の言説には決定的にそこが抜け落ちて
いる。悲しみは、まったく恣意的な(社会学的にみて近代国家の捏造した)道徳に由来するものなのだから悲しむ必要がな
い、というのはおかしいのです。道徳がそのように恣意的なものであることは認めるにしても、それとこれとは別です。

 ゆきこさんは叫ぶしかなかった。悲鳴というよりも、「どうしようもなく」喉から絞り出される金切り声として。ひょっと
したら、癒されようとも思っていなかったのかもしれない。ゆきこさんは叫ぶしかなかった。彼女はひとりでそれを体験し
て、その痛みをこの世界の誰も知らない。(知り得ない。)ぼくたちはその痛みを想像することしかできない。そして想像す
らできない、想像しようともしないバカどももいるわけです。

 ぼくは山口さんが書かれているように、「癒し」には「自分自身との和解」という側面がたしかにあると思う。でもそれだ
けでもないとも思う。うまく言葉にできないけれども。ゆきこさんといっしょに泣くこと。ゆきこさんに「恋」すること。
(それはゆきこさんという存在の全肯定ですから。)本当の意味でそれが「癒し」になるのかわからないけれども。

 癒しの可能性、どのようにひとが癒されるのかぼくにはわからない。鈴木水南子さんや山口さんのような方々に、その存在
そのもので、癒しの可能性を照らしてもらうしかない。ぼくはこころの底からそう思います。

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294Re:記憶1山口あずさ 2/28-01:14
記事番号286へのコメント
nolphinさん、ありがとうございます。
ゆきこさんにわたしは恋をしたのだなぁと改めて気づかさ
れました。
見ず知らずの少女のことが気になって気になって、誰彼と
なくつかまえては、ゆきこさんの話をし、援助交際撲滅論
を語った。(今もときどきそのようなふるまいをしてしま
います。)
わたし自身の片恋いかもしれないというのは、自明のこと
ですが、恋というのはご存じのように片思いだろうが何だ
ろうがどうしようもない。
恋する人は恋し続ける以外の選択肢を持たないのです。
で、そんな自分を半ば諦めの気持ちとともに眺めると同時
に、そういうのもあながち悪くはないさ、と思ってもいた
りもする。
ゆきこさんのことが気になるのがわたしである以上、わた
しはわたしでなくなることはできないのです。
わたしはゆきこさんが少しでも癒されることを夢見て、わ
たし自身が癒される可能性を模索していたのかもしれませ
ん。

宮台先生に関して、最近思ったことがあります。
宮台先生の社会学は善悪を判断しない、と言いながら、宮
台先生ご自身は善悪を判断せざるを得ないだろうというこ
と。それは、恣意的なものではなく、nolphinさんがおっ
しゃる「痛み」のように、彼のなかには善悪があるので
す。
わたしは宮台先生に、それをぜひ白状して欲しい(^^!)。
(これは水南子さんから得たインサイダー情報(^^!)によっ
て思いついたことなのですが)

あと、それから、nolphinさんは暗くないと思いますよ。
少なくとも、光の在処を知っているという意味で。

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301肯定nolphin 3/1-12:59
記事番号294へのコメント
 「恋」という言葉は、すごくいい言葉ですよね。ぼくは「愛」って言葉より12
5倍くらい好きです。

>ゆきこさんにわたしは恋をしたのだなぁと改めて気づかさ
>れました。

 そうなんでしょう。ぼくたちはゆきこさんに恋している。ぼくは、ゆきこさんに
この掲示板を読んでいて欲しいなあ、と思う。ゆきこさんに、あなたは恋されてい
ることを知って欲しい。
 ぼくは、ゆきこさんをすべて肯定する。

>宮台先生に関して、最近思ったことがあります。
>宮台先生の社会学は善悪を判断しない、と言いながら、宮
>台先生ご自身は善悪を判断せざるを得ないだろうというこ
>と。それは、恣意的なものではなく、nolphinさんがおっ
>しゃる「痛み」のように、彼のなかには善悪があるので
>す。

 ぼくは、宮台先生が嫌いになれない。宮台先生がいっていることは、ぼくはそう
間違っていないと思う。しかし、善悪を知らない人間はいない。それが捏造されて
いようと、ぼくらが「ここ」にいる以上、それはぼくらの一部ではないかと思う。
 サドのように「ここ」に対して、「ここ」の異常性を訴えること、少なくとも明
晰でいることはだれもができることではない。(サドは決してただの鶏姦野郎では
ない。)宮台先生もサドのように「ここ」の異常性に対して明晰です。しかし、そ
れを少年少女達に語るのは間違っている。「サドを読むには相当の知力が必要
だ。」と誰かが言っていたと思いますが(誰だったでしょうか?)、知力が発展途
上の彼らにただ異常性を説くのは、やはり危険です。

 そういえば、職場に桃の花が活けてあります。ひなまつりですね。
 

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302Re:肯定 1/2山口あずさ E-mail URL3/2-12:55
記事番号301へのコメント
nolphinさんは No.301「肯定」で書きました。
> 「恋」という言葉は、すごくいい言葉ですよね。ぼくは「愛」って言葉より12
>5倍くらい好きです。

この125とう数字、なんかいいですね。半端なところがとくに。

> そうなんでしょう。ぼくたちはゆきこさんに恋している。ぼくは、ゆきこさんに
>この掲示板を読んでいて欲しいなあ、と思う。ゆきこさんに、あなたは恋されてい
>ることを知って欲しい。
> ぼくは、ゆきこさんをすべて肯定する。

ゆきこさんと実際に名乗りあったりということは一生しないのだろうと思いますが、
でも、わたしはゆきこさんを確かに感じ取ったわけですし、これはお互いにとって悪
くないことだと思う。
この掲示板も、なんか下町人情井戸端会議的な良さがあるなぁと最近勝手に思ってい
るのです。
ときどき、余所の町から荒くれ者がやってきたりするところもなんかおかしいし。

> ぼくは、宮台先生が嫌いになれない。宮台先生がいっていることは、ぼくはそう
>間違っていないと思う。

わたしは彼の最近の著作(「よのなか」、ダヴィンチでのインタビュー等)ははっき
り嫌いです。あまりにニヒリズムが強すぎる。
ですが、一年くらい前のもの(「論座」あたり)は、確かに優れていると認めざるを
得ないと思っています。彼自身、祭り上げられたのか、祭り上がったのか、その両方
なのか、とにかく最近の発言は、「期待される」言葉を吐くことに、躊躇していない
ような印象があるのです。
センセーショナル万歳みたいな印象が強く、どうもわたしは読んでいて具合が悪く
なってしまいます。
「われわれの生きる世界に意味なんかそもそもないんだ」とか、言葉とはデジタルな
もので信用しないとか、彼の言うことを聞いていると、なにかどんどん追いつめられ
てどうしようもなくなっていくような気がしてしょうがない。。。


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303Re:肯定 2/2山口あずさ E-mail URL3/2-12:56
記事番号301へのコメント
>しかし、善悪を知らない人間はいない。それが捏造されて
>いようと、ぼくらが「ここ」にいる以上、それはぼくらの一部ではないかと思う。
> サドのように「ここ」に対して、「ここ」の異常性を訴えること、少なくとも明
>晰でいることはだれもができることではない。(サドは決してただの鶏姦野郎では
>ない。)宮台先生もサドのように「ここ」の異常性に対して明晰です。しかし、そ
>れを少年少女達に語るのは間違っている。「サドを読むには相当の知力が必要
>だ。」と誰かが言っていたと思いますが(誰だったでしょうか?)、知力が発展途
>上の彼らにただ異常性を説くのは、やはり危険です。

高度な応用問題をいきなり中高生に説いてみても、ごちゃごちゃになってしまうだけ
ですよね。
わたしがサドに最初に興味を持ったのは、渋澤龍彦「サド侯爵の生涯」からでした。
サドの実際の著作も読んでみたくなり、探したら単行本が現代思潮社から、文庫本が
富士見ロマン文庫から出ていました。
経済的自由から富士見ロマン文庫を買ったのは言うまでもありませんが、なんか面白
いですよね。
「サドとはさみは使いよう」
なのかもしれない。^^!

> そういえば、職場に桃の花が活けてあります。ひなまつりですね。

明日は、白酒くらい飲もうかな。

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305ふたたび、記憶についてnolphin 3/3-12:24
記事番号303へのコメント
 京都に一泊で旅行してきました。商用だったのでどこにも行けなかったのですが(ぼくは京都
のお寺のどこにも行ったことがない・・・)、梅の花、桃の花(これはまだ蕾が多かったけれど
も)、良いものが見れました。友人が「端午の節句は公休日なのに、なんで桃の節句は休みじゃ
ないのか」と憤っていましたが、ほんと、そのとおりです。

>わたしがサドに最初に興味を持ったのは、渋澤龍彦「サド侯爵の生涯」からでした。
>サドの実際の著作も読んでみたくなり、探したら単行本が現代思潮社から、文庫本が
>富士見ロマン文庫から出ていました。
>経済的自由から富士見ロマン文庫を買ったのは言うまでもありませんが、なんか面白
>いですよね。

 山口さんとは、読書傾向がちがうようで似てるんだよなあ。ぼくがサドに目覚めたのは澁澤龍
彦大大大大大大大先生(これくらい「大」つけたらいいかな? そのくらいぼくが大好きな作
家・翻訳家・思想家・批評家なのだ。)の、「サド復活」でした。これを読んだのが中3のとき
で、わからないところも多かったけれども、「これはとんでもないことが書いてある」と直感的
に感じ、受験勉強もほったらかしで新潮文庫の澁澤訳「悪徳の栄え」を読みふけったのでした。
(まさに「耽る」という言葉がぴったりだったと思う。)

 宮台先生(彼には「大」はつけられないけれども)について。ぼくは彼の分析にはある程度の
リアリティがあると思います。しかしそれは「現状の分析」についてです。
 宮台先生は何かの本で「記憶のないものに対して記憶を説くことは無意味だ」というようなこ
とを言っていました。(引用が正確でないかもしれませんが・・・)同様に、善悪も、生きる意
味も「持っていない人間」に対してそれを(そういう言葉を)コミュニケーションのスキルとし
て使うことはできないということなのでしょう。
 これはこれで正しいのかもしれない。誰もそれを「説くこと」はできないのかもしれない。で
は、宮台先生は誰に対して「布教」(この言葉も彼自身の本のどこかに書いてあったものです)
しているのか? 「記憶を持つ者」に対してか、それとも、「記憶を持たない者」に対してなの
か?

 ぼくはこのあたりに、彼の矛盾と迷いを感じるのです。

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308Re:ふたたび、記憶について山口あずさ 3/3-22:57
記事番号305へのコメント
>「サド復活」でした。これを読んだのが中3のとき

早熟!^^!

>宮台先生は何かの本で「記憶のないものに対して記憶を説くことは無意味だ」というようなことを言っていました。

これは確かによくわかる。子供の頃「10年早い」なんて
ことをよく言われて、こんなふうに言われるとただむっと
していた自分を思い出します。
が、今、こいつがこんなことを言うのは「10年早い」と
思っているオバサンの自分を見出したりする。記憶はある
意味で恐ろしい。

記憶のあるものの記憶が偏った記憶でないという保証はな
いし、記憶のないものは当然「ない」わけで、従って布教
対象者は両方なのかもしれませんが、、、、
でも「布教」するには、善悪の判断がいるよー。と揚げ足
とりみたいなことしか言えない自分が情けないが。。。
宮台先生が有効な子供もいる、というのは確かにそうなの
かもしれないが、、、、
嘘でもいいから、というより、決して嘘ではないから、子
供たちに夢を!
と思うのですよね。
売春するよりキムタク追っかけてた方が幸せだと思うし
ね。
もっとも、こういうこと言うと、両方やってます、なんて
ゆうのがでてくるのかなぁ。
SMAPのチケット代のための援助交際とか。
なんか、脳がすべすべになりそう。

ところで、澁澤たっちゃん(←知り合いか?)に関する本
で、『澁澤龍彦の時代 ──幼年皇帝と昭和の精神史 浅
羽通明著』 は面白いですよ。
たっちゃんのファンじゃない人が書いた本だけど。

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309たっちゃんのこと(畏れ多いな。)nolphin 3/4-10:25
記事番号308へのコメント

>>「サド復活」でした。これを読んだのが中3のとき
>
>早熟!^^!

 そうなんですよねえ。早すぎました・・・(笑) もし目の前にサドを読んでる中学生がいたら取り上げちゃうでしょうねえ。

>ところで、澁澤たっちゃん(←知り合いか?)に関する本
>で、『澁澤龍彦の時代 ──幼年皇帝と昭和の精神史 浅
>羽通明著』 は面白いですよ。
>たっちゃんのファンじゃない人が書いた本だけど。

 これはぼくがツンドクしてる本の山のどこかにある。探して読んでみます。

 最近たっちゃんから遠ざかっていたんで、これもツンドク中の「澁澤龍彦全集」でも読んでみようかと思います。(1年くらいか
けて。)

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310Re:たっちゃんのこと(畏れ多いな。)山口あずさ 3/4-19:10
記事番号309へのコメント

> 最近たっちゃんから遠ざかっていたんで、これもツンドク中の「澁澤龍彦全集」でも読んでみようかと思います。(1年くらいか
>けて。)

そうだよね。読書って時間をかけるものなんだよね。
なんか早く読めると自慢している人に何を読んでいるかと聞くとがっかりするこ
とがあります。
本ってグラムいくらってわけじゃないのだから、ゆっくりちゃんと読みたいよ
ね。(と、遅読のわたしは思うのでした^^!)