ゆきこさんへ(1998.6.15)

さて、いよいよ最後のお便りです。

ゆきこさんがなぜそもそもこのHPのゲストブックに書き込みをしてくれたかを考えると、ゆきこさんは直感的にこのHPのコンセプトを見抜いていたのだと思えてきます。

このHPについて、ちょうど昨日「傲慢で不気味で恐い」という評価をした人がいました。

何を言われても動じないと言えば嘘になりますが、そのような要素があることをわたしは素直に認めます。

きょうは援助交際を離れてこのホームページの話をします。

ちょっとわかりにくいかもしれないけれど、読んでみてください。

わたしがなぜこのようなHPを作ろうと思ったか。

それは「美が壊れている」と感じたからなのです。

抽象的でよくわからないかもしれませんが、現代美術を見るとき、なぜこれが美しいのか、なぜこれが芸術としてわたしの目の前に提示されるのかが、よくわからない。専門の先生の説明を受けてやっと、なるほどね、とわかったようなつもりになることはありますが、とにかく一目瞭然ではありません。

ボロ布を何枚も重ねて置いたような作品を芸術と言われても、その美の所在がわたしには不明だったりします。

美が何か壊れているような気がするのです。

アーティストが悪いというのではありません。アーティストは美を探しています。芸術家の作品に対する態度は、昔も今も変わっているとは思っていません。

ただ、今、現代において「美」が実にわかりにくいのです。

それはたぶん20世紀に起こった不幸な戦争のせいです。

わたしはこんな風に思いました。

「西洋の美は内側から、アウシュビッツによって内側から壊れた。日本の美はヒロシマナガサキに象徴される不幸な戦争によって、外側から壊れた。」(乱暴で簡単すぎる言い方ですが。)

日本ではなじみのないことですが、西洋ではユダヤ人差別というのが根強くあるようです。

皆でユダヤ人を差別して、なにか安心していた(自分のことを美しいと思っていた)西洋の人々はアウシュビッツのホロコーストを見て、じぶんたちがあまり考えずにいたこと、つまりユダヤ人差別ですが、それが何を引き起こしたのかを目の当たりにしました。ジャン・ジュネを引用したときにも言いましたが、人間は自分自身が美しくない、という考えに耐えられないのです。これは、ドイツだけの問題ではなく、ユダヤ人差別をしていたすべての人たちの喉元に突き刺さるような、実に深刻な情景だったのだと思います。

日本にもさまざまな不幸な差別がありますが、アウシュビッツの罪を自らに認めるというような根元的な発想は、とりあえずしなくても済んでいるのではないかと思います。

では、日本の美はどのようにして壊れたか。

日本は武士道の国でした。「武士は死んでも桜色」(「葉隠入門」三島由紀夫 新潮文庫より)という言葉に象徴されるように、日本人は自らに刃を向ける、つまりハラキリという作法を自らに強いることにより、実に強い兵士を作り上げました。

科学技術の進歩などということを抜きにしてただ精神力だけで戦争がなんとかなるものならば、日本は世界一強い国だったと思います。

そしてこのモラル、ハラキリに象徴されるモラルは国民を貫いていました。

でも、このモラルは、自分の国の中だけで通用するものです。

日本国内で戦っている分には、美しい負け方というのがあったのに、外国相手となると負けはただただ惨めな負けでしかありません。

「敵ながら見事な最期」などというセリフを、ガイジンは言ってくれないのです。

ハラキリをするがごとき特攻隊を見て、気が狂っているのか?と思うことはあっても、「敵ながら見事」とは誰も言いません。

桜の季節に靖国神社などを歩いてみると、膝小僧をかかえたおじいさんたちが、「英霊(=戦争で亡くなった人たち)は立派な人たちです」などと言ってお互いを慰めるような集会を開いていたりします。

若い人は、わたしも含めて、何かばかばかしい光景を見ているような気分になる。

お年寄りが気の毒と言えば気の毒ですが、英霊が立派だという考えに賛同するような教育をわれわれは受けていないし、自分もいつかお国のために花と散ろうと思っている若者はまずいない、と言っていい。

われわれにとっては、むしろプラカードのひとつも持って「戦争反対!」という方がモラルのような気がするのです。

お年寄りは今時の若い者は!と言って嘆いたりしますが、そんなことは私たちの知ったことではない。

ハラキリニッポンの美は、想像できなくもないけれど、やはりちょっとまずい、いやかなりまずい、と思わざるを得ない。

どうまずいかと言うと、このやたらに強い兵士、精神力だけで損得勘定抜きに命を捨ててしまうような兵士の存在は、世界の人たちにとっては、「迷惑」なだけからです。

少し大袈裟な話をしました。

もっと、身近な話をしましょう。

このHP「じぶんでじぶんをしつける辞典」のなかに、「トイレットペーバーを使いきってしまったとき 」という項目をつくりました。解答例として、次の人のために新しいのを補充する。というようなことが書かれています。わたしの親の世代の人が見たら、そんなことは当たり前だと言うでしょう。その程度のこと、わざわざ言わなければわからないのか、と言うに決まっている。

彼らの世代はそのようなことを言われなくてもわかる世代なのです。

わたしたちの世代は違います。わざわざ言ってくれないとわからないのです。

なぜか。

大きな美が壊れているのです。

ちょっとわかり難い言い方かもしれませんね。

挙国一致、武士道的精神に貫かれた教育を受けた人たちは、他の人たちのことを自動的に考えられるようにしつけられているのです。だから、トイレットペーパーひとつとっても、他の人が困るようなことはしない、という発想が根付いている。

しかし、そのような教育は、彼らを破滅寸前にまで追い込んだ。

われわれは怖ろしくて、彼らと同じ、あるいは同じような教育をすることができませんし、また、彼らと同じ「美」を掲げることができないのです。

彼らと同じように大きな美を掲げれば、イコールファシズムに繋がってしまう。

われわれはそれがとても怖ろしいのです。

われわれは昔の人たちよりはるかに自分勝手、個人主義的教育を受けています。

再び戦争を起こさないためには、きっとその方がいいのだと信じて、われわれは自分のことをまず第一に考えるような教育を受けた。

キリスト教国の真似をしたのです。

ところが、困ったことにこの国には神様がいない。

しぶんの心を見張ってくれる存在がないのです。

この国で普遍的な宗教を立ち上げるというのは、まず不可能だと思います。

われわれは、共同体のしばりの中でモラルを発揮してきたのです。

共同体が失われ、大きな美が壊れ、われわれはモラルを失いつつある。

しかし、援助交際などという嘆かわしい流行をよそに、たとえば外国から帰ってきて成田着くと何かほっとする。例えば、大きなスーツケースを放ったらかしにして、ちょっとした買い物をしたり、トイレにいったりして帰ってきたときに、スーツケースはまず元の場所にきちんと置いてある。外国ではそうはいきません。

モラルがすっかりなくなった、というわけでもなく、残っているところにはきちんと残っている。

日本は間違いなく、世界でも指折りの安全な国でもあるのです。

われわれのモラルは共同体に根ざしています。けれど、共同体そのものはどんどん希薄になっていますし、現代人はプライバシーを侵害されることを極度に嫌がります。

わたしの夢は壮大です。

わたしは「じぶんでじぶんをしつける辞典」をこうして創り上げることにより、大きな美を掲げるのではなく、小さな美を心の底に敷き詰める作業をしたいと思っています。また同時に、わたしはインターネット上で、プライバシーを決して侵害することのない共同体を立ち上げたいと思っているのです。

ゆきこさん、あなたは援助交際などというつまらない体験をしてしまったけれど、どうかその体験に潰されず、逆にそれをバネにして、より大きな人間に育ってください。

あなたが素敵な女性になることを、わたしは願っています。

幻の少女へ

山口あずさ

表紙へ戻る
ゆきこさんへの手紙目次