ゆきこさんへ(1998.6.13)

きょうは「ほんとうの恋」と「性」について、書こうと思っています。

性について話をするとき、聞き手が下卑た考えを抱かずに聞いてくれるかどうかというのはとても難しい問題で、とくに女性が性について語り出すとオヤジ的男性はただニタニタ下半身の興味だけで聞こうとしがちです。

そのような「ほんとうの恋」と縁もゆかりもないような人には、話をするということそのものがもったいないと私は思ってしまいます。

「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ(JE T'AIIME...MOI NON PLUS)」という曲があります。シャルロット・ゲーンスブールの両親、セルジュ・ゲーンスブールとジェーン・バーキンのデュエット曲。かつて放送禁止になったとても有名な曲です。

今、この曲をかけながらこの手紙を書いています。

ジュテーム、ジュテームと繰り返すジェーン・バーキン。

美しい旋律に載せて、「愛してる、愛してる、いい、いいわ、いく、、、、」「まだだよ」「いく、、、」というようなことを言っているのでしょうか。歌詞はフランス語。ジェーン・バーキンのあえぐような声がときにかすれて、哀しく美しく、愛するの二人のベッドの中の様子がそのままひとつの曲になっています。

同じ曲を聴いて、涙が溢れるような感動を覚える人と、マスターベーションをしながらにやにやしている人がいる。

この曲はわたしにとっては美、そのものです。

恋をするとき、「性」とはすなわち「感動」と同義になります。

援助交際は恋に対する冒涜なのです。
今のゆきこさんがこの曲「「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」を聴いて、感動するとは思えません。
むしろ何か嫌な印象を受けるのではないかと思う。
わたしはそれはとても哀しいことだと思います。

オヤジどもにこの曲の崇高さがわからないのは当然のことだとしても。

わたしは、プラトンの『饗宴』の中から、パンデーモス・エロース(地上的な愛の神)、ウラニオス・エロース(天上的な愛の神)という言葉を何度か引きました。

プラトンはゆきこさんも知ってるかもしれませんが、少年愛を賛美していますので、異性愛はすべてパンデーモスに含まれてしまうのですが、わたしは、異性愛もまた、ウラニオスに含まれるようなものがある。つまり本当の恋が生まれる可能性のあるものと考えています。

−−地上的なアプロディーテーより発する愛の神は、文字どおり、至るところに転がっているもので、風の吹くまま気の向くまま、事も選ばずにやってのける。この愛は、とるに足らぬ人びとの欲するものなのだ。つまり、この種のくだらぬ人びとは、==略==その愛する者の魂より肉体を愛する。さらに、できるかぎり、知恵なき愚者を愛する。─以上のようにするというのも、彼らは、ただ愛の想いを遂げることだけに目をそそぎ、その行い方が美しいかどうかを、気にかけないからなのだ。したがって当然、彼らは、何ごとによらず手当たり次第に─善いこと、善くないことの見境もなく─行うということになるのだ。==略==これに対し、今一方の愛は、天上的なアプロディーテーに発するものだが、このアプロディーテーにつながる愛の息吹を受けたものは、生まれつきより強きもの、より知性ゆたかなる者を愛し−−(「饗宴」プラトーン 森進一訳 新潮文庫)

2400年前に書かれた書物の中に、援助交際に対する真の解答を見出すことができます。

−−少年たちに愛をそそぐことを禁じる世の掟(おきて)もあって、しかるべきだと思われる。つまり、その掟があれば、将来の不確実なことのために、多大の熱意をすりへらすこともなくなるであろう。なぜなら少年たちの未来というものは、心身いずれの面から見ても、将来、善悪いずれに落着くか、その点、まことに不確かなものがあるからだ。したがって心ある人びとならば、もとよりそうした掟を、みずからすすんで、われとわが身に課している。しかし、世の常の地上的な愛に動かされる、愛の徒たちには、そうした掟を強要しても当然のことと思う。ちょうど、われわれが、及ぶかぎり、かかる愛の徒に強いて、自由人たる婦人には愛をそそがぬようにせしめているのと同じように。そのように強要するというのも、じつは、彼らゆえに、愛にまつわる非難も生じてきたからであった。しかもその非難たるや、そのために、一部の人びとが、愛する者になびくことは醜し、と、そのようなことまで、あえて言い出すようになったのである。その一部の人たちがそう言うというのも、思うに、世の一般の、地上的愛に動かされる愛人たちの姿を目にし、その時宜(じぎ)をわきまえぬさま、不正を働くさまを見てのことであった。少なくとも、もし反対に、秋(とき)をわきまえ、掟に従ってなされてさえあれば、その何事たるを問わず、当然、非難を招くことにはならないであろう。−−(同上)

世のマスコミは世のさまざまな事象を本気で憂えてもいるのですが、憂えるというときにおもしろおかしく書いてしまう。

買春オヤジどもをクローズアップして、彼らが一体何を考えているかということに力を入れて取材するべきところを、カメラ映りも良ければ、オヤジよりはるかに素直にインタビューに答えてくれる少女たちにマイクを向けるのです。

で、世の中の大人は「今時の子供は!」という。

実は事態はすっかりさかさまで、わたしに言わせれば「今時の大人は!」と言うべきなのです。

女子中高生が金がないのは当たり前で、金をつくる手段もたいしたものはないのが当たり前なのです。

それなのに、あなた方の目の前に「援助交際」という耳障りのいい選択肢がある。

大人たちはそろそろ目を覚まして、間違いの本質に目を向けなければなりません。

明日は不正について、またプラトンを引用します。

山口あずさ

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