ゆきこさんへ(1998.6.11)

「ほんとうの恋」について書くのは骨が折れます。

世の中、恋愛恋愛と喧(かまびす)しいけれど、「ダディ」(郷ひろみ)また遡(さかのぼ)って「愛される理由」(二谷友理恵)の二冊を並べてみれば、彼らは美しい顔をしてコメディを演じているとしか思えない。またこれらの本の売れ行きを考えただけでも、世間の人々の恋に対する見解が分かろうというものです。

この手のパンデーモスな恋愛本は枚挙にいとまがない。

近頃再婚した松田聖子さんの間男が書いた「真実の愛」というのもかつてありました。

オモシロイにも程があると言うものです。

「ほんとうの恋」をもし数量化できるとするのならば、唯一の尺度は時の流れにいかに耐えうるか、ではないでしょうか。

鈴木真砂女、恋すること40年。

当時18歳の藤村操から手紙を受け取った千代さんは、手紙を死ぬまで、97歳で亡くなるまで、誰にも見せずにとっておいたのです。千代さんのせつない思いは80年です。

わたし自身のこだわりなど、まだまだ修行不足というわけです。
でも、ゆきこさんが今まで生きてきた時間よりはとりあえず長いのではないでしょうか。
わたしの執着心は18年になります。

ほんとうの恋などと、亡霊の話ばかりするのもなんですね。

ほんとうの結婚、もあるのかもしれません。

大野一雄さんという前衛舞踏家がいるのですが、ゆきこさんは知っていますか?

明治39年10月27日、北海道函館生まれ。

今年92歳になる大野一雄さんは、今でも現役の舞踏家として世界的に活躍されています。

何年か前に大野先生(一度だけですが、授業を受けたことがあるので、先生と呼ぶことにします)の舞台を見に行ったときに、アンコールで再び舞台に立った大野先生に奥様が花束を届けられたことがありました。

大野先生は奥様を舞台に上げて、奥様の肩に腕を回して二人で観客に向かってお辞儀をされました。

お二人とも80代後半。

お二人がどんな結婚をし、どんな生活を送ってらしたのか、わたしは何も知らなかったのですが、いつもは辛辣なわたしもなぜだかじーんとなってしまいました。

これが30代や、40代のカップルがやったのでは、なにか悪口のひとつも言いたくなったことでしょう。

平均寿命をとうに超えて、曾孫に囲まれて、長い長い歳月、お二人はいつも一緒にいらっしゃった。

大野先生は現役の舞踏家ですが、奥様はさすがにステージの階段を上がるのがお辛そうでした。でも、客席の拍手と大野先生の手に支えられてステージに上がり、観客席に向かって深々と頭を下げられたのです。

わたしはとても運のいいことに、大野先生にてんぷらをご馳走していただいたことがあります。

友人と二人で先生のお弟子さんの公演に行ったところ、先生が奥様とお二人で見えていました。

「君たち、時間はある?」

と先生がおっしゃるので、友人ともども

「はい」とお返事すると、

これから銀座でてんぷらを食べるので一緒にいらっしゃいと言ってくださいました。

歩きながら、奥様は、こんなふうに二人で出かけたことはないのだとおっしゃっていました。

先生はよく海外公演をされるので、外国でデートしたりはしないんですかと聞くと、ぜんぜんそんなことはないとのこと。息子夫婦はわたしに孫を預けて二人でよくどこかに行ってしまうけれど。とおっしゃっていました。

わたしは素敵な先生とデートしないのはもったいないというようなことを奥様に言いました。奥様は少し照れくさそうに微笑んでいらした。

食事中もわたしは奥様にいろいろと質問をしました。大野先生は昔は高校の体育の先生で、従って奥様は体育の先生の奥様だったのが、突然、先生が前衛舞踏家になってしまって、びっくりしませんでしか、などなど。

今考えると、大野先生は奥様と二人で食事をするのがなにか照れくさくて、お弟子を二人(わたしはにわか弟子)連れていかれたのではないでしょうか。

大野先生の奥様は、昨年亡くなられたと聞きました。

大野先生ご夫妻は、ほんとうの結婚をされていたのだと思います。

また、明日、お便りしますね。

山口あずさ

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