ゆきこさんへ(1998.6.10)
−−ロリータ、わが生命(いのち)のともしび、わが肉のほむら。わが罪、わが魂、ロ、リー、タ。−−(「ロリータ」ナボコフ著 新潮文庫)
ナボコフの『ロリータ』の冒頭を私は暗記してしまっています。
ロリータコンプレックスという言葉は有名ですが、この本をどれほどの人が読んでいるのでしょうか。絶望的な恋がここには描かれています。
わたしが、もうひとつ暗記しているもの。
それは藤村操が恋人に手渡した本に書き込まれていた詩です。
藤村操、明治36年、わたしの祖父の生まれた年に18歳の若さで華厳の滝から身を投げて死んだ一人の帝大生がいました。
将来を嘱望された帝大生の自殺に世間は大騒ぎ。
藤村操のことは、「Azusa Yamaguchi」の方のホームページにhttp://www.geocities.co.jp/Hollywood/9201/
少しだけ書いてあります。
恋しい人に手渡した一片の詩の中で、色と恋は違うのだと操は言います。
一昨日プラトンからの引用で、パンデーモス・エロース(地上的な愛の女神)、ウラニオス・エロース(天上的な愛の女神)と書きました。
色はパンデーモス(地上的)、恋はウラニオス(天上的)と言うことができるでしょう。
ところで、パンデーモス・エロースは結婚を支配するとも書きました。
売買春と結婚と恋について、わたしの独創的というよりは、あまりにも古典的(プラトン的)な考えをこれから展開してみます。
結婚相手は三高がいい、収入が高く、学歴が高く、身長が高い男性がいいというのはどういうことでしょうか。
ところがわたしには、この三高がいいという脳天気な結婚への願望と、自分の中にある恋というのがどうにも縁もゆかりもないもののように思えるのです。
それはその相手が三高ではないから、というのではなくて、とにかくこと彼に関してはありとあらゆる生活の都合が吹き飛んでしまうのです。
とてもじゃないけれど、三高などという価値では追いつかない。
タナトスの泥沼からただ一人、素手でわたしを引き上げた人。
わたしの生命の源泉。
ところが困ったことに、結婚にまつわるさまざまな「都合」を考えたときに、彼は結婚には全く向かない。
わたしのこのこだわりを「ほんとうの恋」と呼ぶかどうかは取りあえず棚上げすることにしましょう。
もちろん、恋と結婚が合致することも希にあることだと思います。
しかしそれは、亡霊の出現が希である以上に希、なのかもしれません。
圧倒的多数の結婚は色と合致することはあっても、まず恋とは両立しないようです。
そして恋というのは、ときに売買春以上に反社会的だったりもします。
ところで、わたしが世間の人たちが大きく勘違いしていると思うのは、そもそも恋が売買春と結びつくように思っているらしいということです。
近松門左衛門が書いた心中ものなどに、遊女に惚れて二人手に手をとって、というのが出てきたりするし、しかも一般的には「ほんとうの恋」など誰もしたことがなかったりするので、仕方がないといえば仕方のないことなのかもしれませんが。。。
たとえ女性が元遊女、男性が元買春夫であったとしても、これから二人で死のうと思っている恋人に向かって、サービスしておくから2万円増しね!ということはあり得ない。
反対に、夫にセックスをしばらくお預けにしておいて、宝石の一つも買わせようと算段する妻はいるような気がします。
とにかく世間の人々は一種平等病にかかっていて、一般的でないものを認めたがらない。
宮台真司先生(社会学者)がフィールドワークをいくら重ねても、体験も数量化もできないことがあって、そのようなあいまいなものを優秀な人たちは知的でないと断ずるのかも知れないけれど、「ほんとうの恋」はこの世にきちんと存在して、恋をする人は少ないながらも確実に存在する。
そして余程のへそ曲がりでない限り、人は皆「ほんとうの恋」に憧れるのです。
もしそうでないのなら、長い行列を作って、デュカプリオ君の「タイタニック」を見ようなどとは思わないでしょう。
たとえ自分が、ではないにしても、人は誰かが恋をすることを欲する。
私個人が恋をしようがしまいが、人々は恋物語から生きる源泉を受け取るのです。
長くなりました。
また、明日ね。
山口あずさ