ゆきこさんへ(1998.6.9)

ついこの間、6月5日、朝日新聞の夕刊に俳人の鈴木真砂女(すずき・まさじょ)さんのインタビュー記事が載っていました。「時の贈り物」というコーナーで、「恋のため家も故郷も捨てて」という見出しでした。双方ともに家庭があって、当時旅館の女将だった真砂女さんは五十歳のときに家出。
記事の冒頭に、真砂女さんの句が載っていました。

 羅(うすもの)や人悲します恋をして

−−昭和十二年にお客だったその人に出会って、好きになって、死ぬまで四十年間つき合ってました。いけないのはあたしなんです。==略==人間恋の一つや二つすると、年とって退屈しなくていい。今年も「春の夢覚めてあしたもこの夢を」という句を作りました。彼が死んで二十年になりますけど、いまでも一日一、二回は思い出すし、夢もみる。あたしにはあの恋がなかったら、なんにもない。あの人を好きになったほど好きな人にはまだ会ってませんね。−−

鈴木真砂女さんは、今年91歳だそうです。

ゆきこさん、恋って何だと思いますか?

好きという感情が大きくなればそれが恋なのでしょうか?

世の中の誰もができるものなのでしょうか?

いつだったか、母がたまたまラジオをつけていて、かなり年輩の女性からのお便りが紹介されていました。「子供も孫もたくさんいて、決して不幸な一生だったとは思わないのだけれど、わたしは恋をしたことがないのです。」

夫が嫌いだったわけでもなく、ただ残念なことに、恋だけは一度もした覚えはないという。今はお見合で結婚する人も大勢いるとはいえ、自由恋愛の時代です。

現代人は皆恋ができるはずだ、と思いますか?

ラ・ロシュフーコーという人がいて、鋭い箴言を残しています。

−−まことの恋は、亡霊の出現のごとし。皆、その話をする。だが、それを見た者はほとんどいない。−−(「人生の知恵−省察と箴言−」ラ・ロシュフーコー 角川文庫)

ラ・ロシュフーコーは17世紀の人ですが、フランス人。フランスでもまことの恋が亡霊の出現ほどに稀なのだそうです。日本ではなおさらかもしれませんね。

中村勘九郎さんは以前にも引用した『役者の青春』の中でこんなふうに言っています。

−−最近の人の中には真剣な恋をしないで適当に遊んでばかりいるのがいるかもしれませんね。それじゃあいくつ恋をしても同じで、人間的にも芸の上でも、何の足しにもなっていないんじゃないかと思いますね。

 いい加減な恋をしないで、疲れるかもしれないけれど、真剣な恋を一つでも二つでも経験すれば、それは本当に恋をした、ということになる。もし、失恋してもそこで開き直りとふんぎりということを体験すれば、人生という舞台に、ごく自然に座っていられる、ステキな人間になれるんじゃないか−−

引用ばかりしているのもなんですね。自分のこともお話しします。

わたしは18歳のときにじぶんにとって特別な人と出会いましたと以前にも書きました。

わたしはその人が大好きで、その人のことばかり話していましたので、わたしの学生時代の同級生が、そこまで好きだと思える人がいるのが羨ましいと言ったことがありました。

飲んで遅くなったときに車で迎えに来てくれるとか、一緒に遊ぶのに便利だとか、そういう理由で今の彼とつきあっているけれど、それほどまでに好きだと思っているわけではないと。わたしの大好きだった人は、車で迎えになどきてくれるような人ではありませんでしたし、実際、ほとんど会えもしませんでした。端から見たらわたしはばかに見えたかもしれませんが、車で迎えに来てくれて、毎日会える彼と、わたしの大事な人を取り替えたいとはかけらも思いませんでした。

そして、わたしはその人に毎日会う代わりに、どうしようもなくその人が好きな自分と毎日向き合うことになりました。

苦しかったのでジャン・ジュネを読み、プラトンを読み、マルキ・ド・サドを読んだ。

わたしはラ・ロシュフーコー言うところの亡霊の出現に日々悩まされたということなのかもしれません。

また、明日続きを書きますね。

山口あずさ

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