ゆきこさんへ(1998.6.6)
ゆきこさんは、今日は学校だったのかな。わたしはお休み。祖母の病院に二度顔を出しましたが、それ以外は家にいました。
性について考えてみると、昨日言いました。
性についての考えはとかく世間の風潮に流されがちで、わたしの親たちの世代より前だと処女信仰みたいなのが生きていて、女の人は結婚するまでバージンでないとならないみたいな考え方に縛られていました。
わたしの祖母の世代もそう。しかしもっと前まで遡ると、日本は性に対してかなり大らかだったとも言われています。
わたしの友人(女性)が大学で講師をしていて、台湾からの留学生に悩みを打ち明けられたことがあると、話してくれたことがありました。
台湾では今現在も結婚するときにバージンでいなくてはならないそうで、もし万が一そうでなくなってしまった場合は外科的に再生させるのだそうです。(※台湾のすべての人がそうかどうかまではわかりません。)
日本人の彼をつくりたいけれど、日本人の彼氏をつくって性的な関係がないというのはきっと無理だと思うので、彼をつくれない、というのが彼女の悩みでした。
ところで、わたし自身が性についてどう思っていたかというと、わたしはかなり性というものに対して、軽く考えていた節があります。
軽くなどと書くと誤解を受けそうですが、要するに性に対してあまり神経を使いたくないというか、何と言えばいいのでしょうね、尻軽な振る舞いをしたいというのとは違って、例えばロスト・バージンなどはさらっと、できればお洒落にさっさと済ましてしまいたいというような、そんな感じです。
もっともこのような感覚は、友人ともども皆似たりよったりで、劇的な恋愛の果てのロスト・バージンなどというのはあまり聞いたことがありません。
せいぜいがちょっと小恥ずかしいいい思い出くらいのものです。
ゆきこさんたちの世代も似たり寄ったりではないかと思いますが、どうかな?
こんなことを質問するのも何だとは思いますが(返事をする必要はないので、話の流れだと思ってください)、ゆきこさんは、自分に性欲があるかどうかということを考えたことはありますか?
わたしは自分に性欲はもちろんあると思っていますが、この性欲は内側から沸々と湧いてくるようなものではないという印象を持っています。
つまり、パートナーである男性がいて、初めて性欲が発生するのであって、そのような男性がとりあえず目の前にいない場合は、別段苦しくも何ともない、ということです。
宮沢賢治のように夜中にばたばた歩き回ったり、冷水をかぶって性欲を鎮静させるというような必要はわたしには全くありません。
性的な妄想に囚われて頭がくらくらするというようなことも皆無です。
女の人と男の人はこの点では全く違っているとしか、思えません。
もっとも女の人でも性が苦しいという場合があって、それは夫がいる場合のような気がしいます。
夫という男性(恋人でもいいですが)によって引き揚げられた性欲が、行き場を失った場合に女性も性が苦しくなる、とわたしは分析しています。
自然界を見ていてもそうですが、オスというのは自然に発情し、メスというのは、オスの努力(ほとんど涙ぐましいほどの)によって、はじめて発情するのではないでしょうか。
性に対して関心があるというのと、実際に発情するのとは全く異なったことだと言っていいでしょう。
男性を無人島に一人きりで置いておいたとして、彼は発情するでしょう。が、女性を無人島に一人きりで置いておいても彼女は別に発情しないということです。
少なくともわたしにはそのように思えます。
そしてこのように考えれば、子供を生む性であるなどということを持ち出さなくても、性的な価値が、基本的に女性側にあって男性側にないということもとりあえずはっきるするのではないでしょうか。
もちろんすべての男性に性的な価値がないわけではなくて、特別な男性というのも存在するのですが、男性の平均値には性的価値はない、とわたしは判断しています。
これに対して、女性の平均値には十二分に性的な価値があります。
明日、また続きを書きます。
おやすみなさい。
山口あずさ