ゆきこさんへ(1998.6.2)

ゆきこさん、ただいま。

昨日、好きという感覚があると豊かな感じがすると書きました。

書いたあとで、今読んでいる本の冒頭に書いてあったエピソードのことを思い出しました。

この本は、「<性の自己決定>言論」コーディネーター宮台真司(紀伊國屋書店 \1,700)というもので、宮台氏の書いたまえがきのところに、B子(宮台氏が取材したことのある売春女子高生)さんの映画『ラブ&ポップ』に対する感想が紹介されていました。

ちょっと引用してみますね。

−−トパーズが欲しくて援助交際をした主人公の女子高生が、ホテルで男にスタンガンを突きつけられて《キミがこういうことをしてるって知ったら、死ぬほど悲しむ奴がいるんだ。わかってんのかよ》と恫喝されるシーンで、彼女(B子)は不覚にも涙がこぼれたのだという。==略==彼女は自分が泣いた理由をこう説明する。主人公がスタンガンの男に《死ぬほど悲しむ奴うんぬん》と説教される場面で、自分には「自分のために死ぬほど悲しんでくれる人」が「存在しない」ことをしみじみ思い返し、その「悲しむ人の不在」が悲しかった。
 確かに売春の事実を母親や父親が知れば、怒り、嘆き、場合によっては泣くだろう。でもそれは「相手が思い通りにならないこと」「相手を見損なっていたこと」すなわち「期待外れ」に憤慨して、自己表出しているだけ。「悲しむ」ことは全く違うとB子は言う。
 B子はこう続ける。自分だけじゃない。この映画を見た、援交経験がある「普通の子」は、家に帰り学校に行って、家族や友達や彼氏に会い、目の前の相手が「自分のために死ねるほど悲しんでくれる」かどうか考えてみて、否定的な結論を導いて愕然とするだろう。−−

ゆきこさん、どう思いますか?

ゆきこさんもB子さんと同意見ですか?

B子さんはこんなことも言っています。

−−ひるがえって、そもそも自分自身に「その人のために死ぬほど悲しめるような他人」がいるかどうか考えてみたが、ありそうもない。とすれば、自分には父親や母親を責められない。たぶん仕方のないことなのだ。−−

わたしが少女の頃、わたしはよくこんなことを考えました。自分には生きるための積極的な理由がない。誰か他の人間が積極的にわたしの死を願うのであれば、今すぐ死んでも別に構わない。わたしは見ず知らずの誰かの願いを叶えてあげてもいい。

B子さんとまったく逆でしょ。それもただの逆ではなく、ほとんどすれ違っていると言ってもいい。

わたしはこんなふうにも考えました。たとえば自分に子供がいたら、わたしは生きていられるのではないかしら。でも、今現在子供があるわけでもなく、わたしがいないと困る人間がいるわけでもなく、なぜわたしは生きていなくてはならないのか。

B子さんが普通でわたしが異常だったのでしょうか。

少女の頃、わたしは自分の内側に生きる意味というのがどうにも見いだせなかった。

今でも、内側に生きる意味があるかと問われれば正直なところ心許ない。

けれども今は、わたしが死んだらまず第一に母が悲しむ、祖母が悲しむ、またわたしの恋しい人がきっと悲しむ、友が悲しむ、ということを実にリアルに思い浮かべることができます。

ゆきこさんも悲しんでくれるのではないかと思っています。どうかな?

わたしには外側に生きる根拠があるのです。

わたしのために死ぬほど悲しめるような他人がいるかって?

はっきり答えましょう。

「います」

ゆきこさんにももちろんいます。

それはこれから出会う誰かかもしれないし、今すぐ側にいるのにゆきこさんが気づいていないだけなのかもしれません。

今現在悩んだり悲しんだりしているゆきこさんは、これからいろいろなことを体験してゆく未来のゆきこさんに繋がっているということを忘れないでください。

ゆきこさん自身が、「その人のために死ぬほど悲しめるような他人」とこれから出会うことになるのです。

それでは、きょうのところはおやすみなさい。

また明日。

山口あずさ

表紙へ戻る
ゆきこさんへの手紙目次