ミズスマシ(出口王仁三郎について)
山口wrote:
「じぶんでじぶんをしつける辞典」の試み自体は人間が宗教から自立するために、内なる自らの心を自らが見張る、あるいは、バーチャルな共同体が見張る、というものです。
ミズスマシwrote:
なるほど。
山口wrote:
わたしは人間を、ただそのまま、では信じていません。
だから個性などいうものも、疑っています。
磨かれてこそ人間(あるいは個性)と考えています。

ミズスマシwrote:
これはそうだと思います。

山口wrote:
宗教に対して素直な気持ちを持てば、あるいはもっと楽なのではないかと思いもするのですが、わたし自身が宗教を選ぶことはまずないと思います。

ミズスマシwrote:
 私自身大本の信者でもありませんし、宗教を押し付ける気もさらさらないのです。
王仁三郎も次のように語っていますが、王仁三郎の言葉を引用したりするのは、それまで不鮮明だったものが、はっきり見えるようになるのでは?という思いがあるからです(既成の宗教の概念からは、王仁三郎の考え方ははみ出しています)。
「宗教は芸術を生み、芸術はまた宗教を生む。芸術は人生の花である。人生に宗教および芸術なきときは、世の中はじつに寂寥な、そして無味乾燥なものである。そして恋愛と信仰とは、人生に欠くべからざる真実の果実である。神仏やその他の宗教を信仰するというのも、要するに恋愛を拡大したものであって、宇宙の元霊たる独一真神を親愛するのを信仰といい、個人を愛するのを恋愛という。ゆえに恋愛と信仰とはその根底を同じうし、ただ大小の区別があるのみである。(略)
 自分は宗教の宣伝使をもって自任しているが、同じ宇宙唯一の大神霊に向かって、同じ神霊の愛に浴せんとする目的をもっている宗教である以上は、眼目点さえ同じければ、枝葉にわたる宗教的儀式や説き方などはつぎのつぎである。」
       『神の国』大正14年5月24日「信仰は異なるとも」
「大本は筆先にある通り、世の中が至粋至純であれば、神様の教は要らぬのであります。(略)
 宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである。主義・精紳が第一であって、大本であろうと何であろうと、名は少しも必要ではないのである。」
『神の国』大正13年1月号「宗教不要の理想へ」

山口wrote:
「恋」を「じぶんでじぶんをしつける辞典」から離したのも、恋と倫理道徳を結びつけるつもりが毛頭ないからなのです。
恋はリスキーな冒険以上の何物でもないと思っています。

ミズスマシwrote:
「恋と倫理道徳」を分離するということは、分ります。
後の王仁三郎の戒律についての考え方をみてもらえれば、倫理道徳は人間が作為した戒律にあたり、恋とは結びつけない方がいいことになるでしょうから。

ミズスマシwrote:
 王仁三郎の恋に関する歌を付け加えておきます。
「人を恋ふるこころしなくて天地(あめつち)の神に仕ふる心おこらじ偽りの神のをし(教)へは人人の恋てふものを罪とするなり神を恋ひ人を恋ふるはかむ(神)ながら神の授けしこころなりけり世の中に恋てふものをすてされば人は岩木(いはき)と変らざるべし人の世に恋てふもののあればこそ世はおだやかに進みゆくなり鳥獣(とりけもの)虫けらまでもかむ(神)ながら恋を語らぬものは世になし鳥唄ひ蝶舞ひ虫のもろ声も恋てふものの現はれなりけり偽りをつきかためたる枉教(まがのり)は恋をきたなきものと云ふなり」
『東の光』

山口wrote:
Above me only sky.
が、わたしの心情です。
不遜かもしれませんが。

ミズスマシwrote:
 「Above me only sky.」と言えるのは、たいしたものだと思います。
 王仁三郎は、次のように「人がなによりも天を恐れ、神以外のなにものをも畏れなくなったとき、はじめて理想の世界が地上に実現する」といっていますから、正に「Above me only sky.」ということに。
「孔子いわく、『君子に三つの畏(おそ)れあり、天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る』と。また賢王ソロモンいわく、『エホバを恐るるは智の本なり』と。
 かくのごとく古の聖賢は、民を導くに『天を恐れよ、神を畏れよ』と教えたものである。しかるに今日の政治家や教育者たちは、かえって『天を恐ることなかれ、神を畏るべからず』と教えているように思われるのである。
 人がなによりも天を恐れ、神以外のなにものをも畏れなくなったとき、はじめて理想の世界が地上に実現する。しかるに今日の学校教育は、なによりもまず試験を恐れさす教育ではないか。また今日の社会教育はどうか。あるいは権力を恐れしめ、あるいは金力を恐れしめ、また法律の制裁、科学の威力を恐れしめる教育がほどこされているのではないか。
 権門の家庭では、その子女を養育するにあたって、いかに権力が今の世に偉大であるかを知らしめようと努力する。富を求める者は、金力の強大性を力説し、法律家は法の制裁を恐れしむることによって、地上天国が出現するかごとく教え、科学者はなによりも科学の力の恐るべきを強調する。
 もし、孔子の言葉を正しとするならば、今の世の政治は明らかに君子の道にそむける政治であり、またソロモンの言葉を賢しとするならば、今日の教育家たちは、すべて智をえざる徒であるといわれてもしかたなきしだいである。」
『人類愛善新聞』昭和10年8月「専ら天を畏れ其の啓示に心せよ」
 つまり、人間が、天を恐れるのではなく、権威、権力、法律、道徳、金といった外面的なものを信じ、恐れることによって人間の心が歪んでしまっているから、現在のような混乱した世界となっているというわけです。
 人間は、無意識の内に神の存在を知っていると王仁三郎はいっています。
「神の存在を否定する人々に、むつかしい理屈は禁物である。野に咲いている百合の花を見せて、もしその人が『美しい』といったら、それでよいのだ。その人は十分に神の存在を知っている人である。すなわち、その人は理屈で神を否定しながら直感で神の存在を知り、肉眼で神を見ないが、すでに魂のどん底で神のささやきを感得しているのである。神は理屈で論ずべきものでなく、肉眼で見るべきものでなく、直感で知り心のささやきで感ずべき存在なのであるから、神を否定している科学者や理論家たちも、結局、科学や理論では神はわからないということを証明しているにすぎないのである。」
『人類愛善新聞』昭和10年8月23日「直感力を養え」
「神は全大宇宙を創造し、宇宙一切の花とし実として人間を造った。人間は神の精霊を宿し、神に代わって地上の世界はいうもさらなり、宇宙一切霊界までも支配せしめることとしたのである。(略)神とか、大自然とかいうものは、宗教家のいうごとく絶対的の、全智全能者でない。地上の花たる人間を疎外しては、神の全智全能もあったものでない。
  けれども、神は全知全能なるがゆえに、人間を地上に下(くだ)して、天地経綸の用をなさしめている。神と人と相まって初めて全智全能の威力が発揚されるのである。(略)人間は独力では働きはできない。いずれも神の分霊分魂が、体内に宿って、地上の世界を今日の現状まで開発させたのである。人間は神とともに働いて、天国を造り、浄土も造り、文明の世も造るのである。この原理を忘れて、ただ神仏を信仰すれば、全知全能だから、信心さえとどけば、どんなことでも神が聞いてくれるように思うのは、迷信、妄信のはなはだしきものといわなければならない。
  (略)
 この無限絶対なる宇宙の完成は、今日まで五十六億七千万年を要している。(略)いよいよ天地人三才の完成する間際であり、今や新時代が生まれんとする生の苦悶時代である。今日までいろいろの大宗教家や、聖人や学者などが現われて、宗教を説いたり、宇宙の真理を説いているが、いずれも暗中模索的の議論であって、一つとしてその真相をつかんだものはない。ゆえに今日まで、真の宗教もなく、真の哲学もなく、真の政治も行なわれていない。いよいよ宇宙一切の完成の時期になったのであるから、その過渡時代に住する人間の目からは、地上一切のものが破壊され、滅亡するように見えるのである。」
『水鏡』「神の経綸」
 また、王仁三郎は、人間の霊魂は、神の分霊であり、一霊四魂から成り立っていて、五情の戒律が与えられているとしています。
               五情の戒律
 一霊 ― 直日(なおひ)   省みる
 四魂 ― 荒魂(あらみたま) 恥る
      和魂(にぎみたま) 悔ゆる
      幸魂(さちみたま) 畏る
      奇魂(くしみたま) 覚る
 五情の戒律が与えられている以上、それ以上の戒律によって人間を縛るのは害になると、王仁三郎は次のように述べています。
「省、恥、悔、畏、覚の五情は霊魂中に含有す、すなはち神明の戒律なり。末世の無識、みだりに戒律を作り、後学を眩惑し、知識の開発を妨害す、神府の罪奴(ざいど)というべし。(略)
 釈迦の十戒といひ、基督(キリスト)の十戒といい、その他の学者神道者の唱導する戒律は、悉皆浅薄、偏狭、頑迷固執にして社会の発達、人智の開明に大害をなすものなり。
 人は天帝の御子(みこ)なり。神子(みこ)たるもの、真の父たり母たる上帝より賦与せられたる至明至聖なる戒律を度外視し、人の智慮によって作為したる不完全なる戒律を楯とたのみ、もって心を清め徳を行い、向上し発展し、立命せむとするは愚の骨頂にして、あたかも木によって魚を求めむとするがごとし。」
『霊界物語』第10巻・「言霊解」
 王仁三郎の考え方でいけば、心が曇ることによって、神から与えられた霊魂の働きがうまく働かなくなってしまうのを防ぐために、心を「磨く」ことが必要ということになります。だから、山口さんのいう「磨かれてこそ人間(あるいは個性)」という考えと一致するでしょう。「じぶんでじぶんをしつける」ことが出来るのは、背後に一霊四魂の五情の戒律あってのこと、という風に私は考えています。
 引用が多くなってしまいましたが、王仁三郎の教育論なども斬新でラディカルなものです。
 「現代のような教育の行方(やりかた)では、床の間に飾る盆栽は作れても、柱になる良材は出来ない。野生の杉檜(ひのき)松などは、少しも人工を加えず、惟神(かむながら)のままに生育しているから、立派な柱となるのだ。
今日(こんにち)のように児童の性能や天才を無視して、圧迫教育や詰込教育を施し、せっかく大木にならうとする若木(わかぎ)に針金を巻いたり、心(しん)を摘(つ)んだり、つっぱりをかうたりして、小さい鉢に入れてしまうものだから、碌(ろく)な人間は一つも出来やしない。惟神(かむながら)に任(まか)して、思うままに子供を発達させ、智能を伸長させるのが真の教育だ。」
『霊界物語』第69巻・第3章「喬育」