エッセー表紙

表紙へ戻る

人の精 

※2年前に「光の微塵系列vol.5」に書いたエッセーです。

同時進行で本を何冊か読んでいる。別に珍しいことではないのだけれど、今読んでいる『澁澤龍彦の時代\幼年皇帝と昭和の精神史 浅羽通明著』と、『水妖記(ウンディーネ) フーケー作 柴田治三郎訳』と、プラトンの数冊の著作、それから昨日たまたま見たTV『電波少年』がなぜだかわたしの中でリンクしてしまった。

『澁澤龍彦の時代』は1993年に出版されている。『水妖記』やら『プラトン』に比べればつい最近の本である。しかし、1993年ということは、オウム以前ということでもある。

「序章 ぼくたちの失敗 −なぜ澁澤龍彦なのか?」と題された冒頭の文章の中で、浅羽氏は、M君の事件(覚えておられるだろうか、かの連続幼女殺人事件を)、横浜で起こった中学生による老浮浪者暴行事件等々、われわれの世代を映す鏡ともいえるショッキングな事件に言及しながら、澁澤龍彦のさまざまな発言を引用し、氏の発した警告を再び発している。そして、この警告はオウム後でも充分有効にわれわれの耳に痛く響いてくるのだ。

引用文の引用になるが、澁澤龍彦の言葉を少しだけ抜き出してみることにする。

「現代の若者には、強い密室志向があり、さまざまな装置ごとカプセルに立てこもろうとする傾向があるという。−−中略−−ただ、宇宙飛行士に訓練が必要とされるように、カプセルの中で生き続けるためにも、それ相応の訓練が必要なのは言うまでもあるまい。」(『玩具草紙』「地球儀」より)

オウムの事件報道をわたしはほとんど見ようとしなかった。画面一杯に映ったあのような醜いものを見る、ということが、わたしには苦痛であったからである。(偉そうに言うのもなんだとは思うが・・・・。)その代わり(これも偉そうに聞こえるかもしれなが)プラトンの『国家』を繙いた。何度も読みかけては最後まで読み通せずに放り出していた本である。日本国中大騒ぎの真最中から読み始めて、延々、オウムのニュースがやっと影を潜める頃になって、読み終えた。この本の中に、民主制の後に来るのは、僭主独裁制と書かれた箇所があった。

プラトンは、幸福な国家から最も不幸な国家を以下のように定義づけている。

一、王者支配制

二、名誉支配制

三、寡頭支配制(=金銭第一主義的国家)

四、民主制

五、僭主支配制

僭主支配制が最も不幸な国家であるというのは納得するにしても、民主制を最後から二番目に持ってきているのには正直驚かされた。

以下はプラトン著『国家』からの抜粋である。

−−<自由>こそは、民主制国家がもっている最も善きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのは、ただこの国だけである−−

−−そのようなことへのあくことなき欲求と、他のすべてへの無関心が、ここでもこの国制を変化させ、僭主独裁制の必要を準備するのではないだろうか?−−

−−民主制の国家が自由を渇望したあげく、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任にある人々があまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者たちをけしからぬ連中だ、寡頭性的なやつだと非難して迫害するだろう−−

−−支配者に従順な者たちを、自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと辱めるだろう。個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、支配される人々に似たような支配者たち、支配者に似たような被支配者たちだということになる。このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで行きわたって、その極限に至らざるをえないのではなかね?−−

−−このような状態のなかでは、先生は生徒を恐れて御機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる−−

−−すべてこうしたことが集積された結果として、国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧が課せられると、もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ。というのは、彼らは君も知るとおり、最後には法律でさえも、書かれた法であれ書かれざる法であれ、かえりみないようになるからだ。絶対にどのような主人をも、自分の上にいだくまいとしてね−−

−−僭主独裁制がそこから生まれ出てくる、かくも立派で誇り高き根元にほかならないのだ−−

かなり引用が長くなってしまったが、この二千四百年前の著作の慧眼には、いつものことながら恐れ入る。

この我々の生きている現代が民主制であろうことは言わずものことであるが、この後に来る時代が僭主支配制とは・・・・。 しかし、これは見事に当てはまるではないか。オウム王国はその信者にとって、民主制のあとに来た僭主支配制そのものと言っていいのではないだろうか。

『電波少年』を見た。久しぶりに。フジモリ大統領のお嫁さんになりたいとか何とか言って、まじめに怒られたりもしたが、悪ガキぶりが面白い番組である。村山元首相の眉毛を切らせてもらいに行ってニュースに取り上げられたこともあった。わたしが見た回では、「弥生時代のブレスレットがしてみたい!」ということで、遺跡から発掘された弥生時代の腕輪を貸して貰えないかと、松本明子がどこぞの市役所に直談判に行っていた。もちろん彼女のいでたちは弥生時代ルックである。ブランド志向をおちょくっている、世間の常識をおちょくっている、たわいもなく。

わたしは、決してこの番組が嫌いではない。

次のコーナーはいかにも比重の重そうな松村がなんでもかんでも挑戦するのだと、柔道八段のおじいさんのお宅を訪ねる。近所の公園に予め畳を敷いておいて、とにかくひょいとでも投げ飛ばして貰えれば、それで納得するという予定調和?を目的としている。

「たのもー」などと言って、松村は柔道八段氏の玄関先のチャイムを慣らす。応接間に通された松村は、「勝負をつけてください」と、生真面目のパロディを演ずるが、柔道八段のおじいさんは、「講道館に来なさい」と言うばかりで、その場で勝負をつけてくれるなどということは、してくれそうにない。それどころか柔道の心得を延々と聞かされるはめになる。価値のずれが面白いと言えば面白い。ところどころに笑い声も挿入されている。結局「お年寄りは話し相手がいないからねぇ。」というオチになるのだ・・・。

われわれは、エゴを許してくれる文化の中にいるのだろう。

聞きたくもない年寄りの話がどんな種類のものであるか、などということは関係がないのだ。座らされて、興味のない話を聞かされるイコール苦痛である。そのワライがワカらないわけではない。しかしこちらのワライからは先ほどの弥生ルックとはちょっと違った印象を受ける。

歳のせい、というより自分がおじいちゃん子であったせい、と思いたいが、柔道八段のおじいさんにわたしは少なからぬ同情を感ずる。いや、もっとドライに考えてもいいのだ。おじいさんだって、相手の都合はおかまいなしだったのだ。思う存分話せて楽しかったのかもしれない。おじいさんの誠実さを思いやろうなどというのは、その場の気分のセンチメンタルなのかもしれない。しかし、しかし、なのだ。番組の送り手に大した悪気はなかろう。しかし、受け手は? 軟らかく敏感な受け手はどうだろう。子供が無批判な下卑たワラい声を立てているような気がするのは、思い過ごしだろうか? このワラいは笑いではなく、嗤いなのではないか? そして、この嗤いによって、またひとつ、大人たちは子供たちのエゴを保証したのではなかったか?

年寄りに限らず弱者に対する嗤いを正当化することなど、冷静に考える頭の持ち主ならば、不可能である。しかし、そのようなことどもが知らず知らずのうちに世の中には溢れている。そして、エゴは見えないうちにどんどん大きく育っていくのだ。

タクシーの順番無視を注意されて、その注意した人を殴り殺してしまった高校生(中学生?)の集団がいたのを思い出す。この子供たちは、その後の一生をどのように送るのだろう。どのような心象の元に残された数十年を過ごすのだろう。タクシーの順番が待てないほどにエゴが育ってしまう前に、オトナはなんとかできなかったのだろうか。細かく丁寧にエゴの芽を摘んでいたら、殺人者にならずに済んだのではないだろうか。殺人は子供たちだけの責任ではなかったのではないか?

さて、フーケーの『水妖記』。これは、水の精の話だ。湖のような青い瞳。輝くブロンド。ウンディーネは水の精である。子供をなくした老漁夫のもとで育てられるが、そのわがままぶりは無軌道そのものであった。なぜなら、水の精には魂がないから。しかしこの魂のない水の精も人間の男と愛によって結ばれれば、魂が得られる。やがて、美しい騎士と恋に落ち結ばれて、魂を得たウンディーネは、美しい心の持ち主となり、自分の養親がいかに自分を慈しんでくれたかを理解するようになる。そして、騎士と共に養親の元を離れていくのだが、そこでは、元から魂のある人間たちの醜さを目の当たりにすることになる。ウンディーネは、「魂」そのものを、「愛すること」によって完全に自らのものとしたのだが、人間には元から魂があるといいながら、つまらないことで醜い争いを繰り返してばかりいる。ウンディーネの愛には微塵程の迷いもない純粋なものである。それなのに、回りの人間は迷ったり疑ったりを繰り返すのだ。この魂は魂と呼ばれてはいるものの不完全なものなのではないだろうか?

ウンディーネが愛を知り魂を得たそのとき口にした言葉を引こう。

「魂って重い荷物に違いないわ。とても重いものに違いないわ。だって、そのかたちが近づいて来るだけでも、もう私には居ても立ってもいられないような心配や悲しみが影のように覆いかぶさって来るんですもの。いつもはあんなに軽い、楽しい気持ちでいられたのに。」

人間は、人である前に人の精なのではないだろうか?

こどもたちは皆、人ではなくて、人の精なのではないか?

魂を手にいれるには、条件が必要なのに違いない。われわれは魂を手に入れる手だてを、見失っているのではないだろうか?

○追記

この原稿を書き終えてから数カ月が経過した。

あちらこちらと寄り道をしながら、あれやこれやと思いを馳せている。

一九九六年六月九日、一体何回めになるのか「賢治を飲む会」が開催された。

この会に二度めの登場となったS君の発言、なぜ面白い文学(「文学の方が面白いけれど」と本人が発言したので)ではなく、国際法の勉強を続けているのかという問いに答えて、

「僕はボスニアヘルツェゴヴィナを放っておけないんです。」

それは正義感などという言葉では追いつかない、存在が存在に寄せるシンパシーなのだろう。神の御手に最も遠き者を救うことができるのは、神ならぬ人であると確信する。

『宮沢賢治\その愛\』というタイトルの映画を見た。映画のでき不出来がどうであるかは知らないが、賢治の一生のおさらいをさせて貰った。ときに人はその人を生きると同時に、人類(人々)としても生きるのだ。人としての自分が悲しい以上に、人である他人が悲しい。賢治が宗教に走った(?)原因は、この悲しみの過剰にあるのだろう。

弥勒菩薩は五十六億七千万年、衆生を救うために考えているのだと言う。皆の頭の中に弥勒菩薩がいて、皆で少しづつ考えているのではないか、などと思ってみる。88才になった祖母は 秒前のことを記憶していない。わたしはあと何十年か、ごくちっぽけな頭で考える。愚にもつかないことに追われながらではあるけれど−−。

山口あずさ

エッセーの感想は、BBS