極めつけの難問だと思う。こうした事態を前にして、「食い止めるために」というところまで一足跳びに行ける力はわたしにはない。この問題に自分が入っていける入り口を探すことで精一杯、というのが、偽らざる心境だ。彼らの苛立ちが幾分「わかるような気がする」反面、その極端な行動に内側からブレーキがかからないことへの戸惑いを覚えるのも事実だから。それとぴったり対応する形で、彼らに対して露骨な不信感を表しているかのような「持ち物検査」への反発と、彼らに日々向き合わなければならない現場の教師たちになんらかの「防衛(自衛だけではない)」手段をこうずることさえ禁ずるようなキレイゴト的発言への違和感とが、同じ重みでわたしの中には存在する(「今」どう対処すべきか、というのっぴきならない問題と、「価値観の鋳直し」といった長いタイム・スパンの問題、この両者にねじれをもたらすことなしに解決する手だては存在し得るのだろうか?さしあたって、わたし自身は力点を後者の方に置きたい、と思う)。
想像力が厳しく試されているように感じる。「自分自身の中学校時代」を振り返ることも「手がかり」にはなろう。しかし、「時代の変遷による環境の変化」を正確に見積もることも大事だろう。思いつく限りの思考材料を、かたっぱしからランダムに並べてみる。
○中学校時代の自分のことを思い出してみる。自分自身がいちばん嫌いだった時代。とにかく攻撃性が激しかった。反抗期…確かに大人の汚さや無理解が目について、許し難かった、というのも事実なのだけれど、実はそれは自分自身のイメージがくっきりとした輪郭を形作っていないことからくる自信のなさや、不安の裏返しだったのかもしれない。自分がいちばん見えなくなっていた時期だと思う。抽象的な存在、というのか、地に足がついていない感じで…。心を許せる友達がいたことだけが救いだった(これは重要なポイントだ)。この時期、“疾風怒涛時代”っていう呼び名がちゃんとあるくらいだから、これは普遍性があることなのだろう。
○何しろ「思春期」って、内側からたぎってくるエネルギーがあまりにも強いので、自分でももてあまし気味だった。殴り合いのケンカもごく稀にはやった。殺意に似た感情も、瞬間的にはあったかもしれない。でも、“こいつ、殺してやる!”と思うことと、それを実行することとの間には、そう簡単には跳び超えられない深い溝があるものではないだろうか? それはモラルなんかじゃない。自分の一番深いところからやってくいる感覚とでも言うしかない“なにものか”、なんだと思う。それをなくしたら、まさに自分自身が壊れてしまうような、“なにものか”。…それさえ失わせるような要素が今の時代にはあるのだろうか?
○『もののけ姫』に関わる宮崎駿氏の発言。「暴力というのは人間のなかにあるんだと思うんですよね。人間が間違って育ったから凶暴になったり、残忍さや暴力がくっついてるんじゃないんだと思うんですよ。生命のなかにくっついているんだと思うんですよ。だからそれを前提にして考えるべきだといつも思ってます。…それを全部押さえようとするのは…おろかなことですよね。」
○日本社会の構造変化に関するデータ。1975年前後、というのが、いろいろな意味で節目になっている、という証拠の数々。都市人口割合が急増し続けていたのが、(75%に達して)頭打ちになった。第三次産業従事者が5割を突破した。国民の80%が「中流意識」を持つに至った。高校への進学率が、(90%!に達して)頭打ちになった。登校拒否が激増し始めた。…これらが全部、まるで申しあわせたかのように、1975年前後に集中しているのだ!
「貧しさからの脱出」という国民共通の目標は、この頃既にほとんど達成されたのだ、と言ってよいのだと思う。生活実感に照らしてもよく納得できる気がする。日本は豊かになったのだ。同時に、「明るい未来へ向かって」という学校のスローガンが、求心力を失い始めたことも確かだろう。つまり、これ以降の子供たちには、自分たちが学校に行かなければならない必然性をちゃんと感じられなくなっている、ということだ。だとすれば学校という「器」が時代の変化に対応できず、今の子供たち集団を持ち応える限界に達している、と考えるのが、常識的な順序だろう、とわたしは思う。言ってみれば、タガがはずれてしまったのだ。
○バブル崩壊後の不況が延々と続いている。「構造不況」とも呼ばれ、その根は深い。霧の中に閉じ込められたような不安感がわたしたちを包みこんでいる。だがだからといって、それがただちに近代化以前のような「貧困」への逆戻りを意味するものではない点には留意すべきだろう。わたしたちの親の世代が営々として築き上げてきた日本経済の足腰は、そこまでヤワではないのだ。確かに世の中を覆うムードは暗いけれども、客観的に見て文字どおり「明日の食料にも事欠く」事態に陥るほど逼迫した状況ではない。
一方で、ミニマムな共同性を担う「家族」もまた揺れている。家族同士の距離感もまた、うまく保たれてはいない。家族の繋がりが、しなやかさを失っている。図体だけは一人前の息子の家庭内暴力に疲れ果てて、わが子を殺す親たちの事件が多発しているのもその現われだろう。
「消費社会の到来」などと呼ばれもしたある種高揚した季節が去り、不況の冷気に曝されてふとわれにかえってみると、依って立つ足場になるようなしっかりした価値観などどこにもないことに、今さらのように気付かされた、といったところが、わたしたちの現在の姿ではないか?
だからほんとうの問題は、大人たちの自信の喪失や、先行きの見通しのきかなさにある、と見るべきだろう(だからこそ少年犯罪も、非古典的な形態をとるのであろう。近代以前に「本物の銃が欲しかった」などという「理由」で殺人未遂、ということはあり得ない)。
「殺人」が「悪」である、という認識は、近代市民社会の成熟と共に、コンセンサスになりつつあるはずだ。「ひとを殺してはいけない」ことくらい、今の中学生だって、理屈の上ではわかっているに違いない。
だから、或いはこう問題を立て直すべきなのかもしれない、今の子供たちの中に、いったい何故、「ぼくはひとを殺すのはイヤだ」という明瞭な感覚が根をおろしていないのか、と…。
エッセーの感想は、BBSへ