10月31日、林洋子さんにお誘い頂いて、北沢タウンホール、せたがや女性センター“らぷらす”に出掛けて行った。
パネラーは都立大学助教授、宮台真司氏、及び、現役・元セックスワーカーのためのピア・カウンセラーである鈴木水南子氏。
車で来たために17分遅れた宮台氏を待って、ディスカッションは開始された。
まず、このイヴェントのセッティングをしたという小生意気な(まぁしょうがないか)男子高校生が短い挨拶をした後、宮台氏及び鈴木氏が20分づつ話をして、それから二人の対話、そして質疑応答となった。
途中ハプニングもあって、会場から苦情が出たりもしたが、わたしにとってはハプニングの方が面白く、参加したかいもあった。
宮台氏の最初のトークはさして目新しいものもなく、一応ペンを取り出してはいたのだが、自己のセクシャリティを「自己滅却型」であると言った一言をメモしたのみである。
ポルノフィルムを見るとき、女性は女性に自己同一化し興奮を憶え、男性は男性に自己同一化し興奮を憶えるのが一般のようだが、自分は女性のほうに自己投影しがちだというような話の後、その理由と思われる自己の体験談、自分はいずれにせよレイプごっこはできるが女の人が嫌がることはできないので、従ってレイプはできないと話し、また自分は「言葉を信じていない」こと、性に関する話は相手を論駁するよりも「納得させる」ことが重要だというような話をした。また彼が繰り返し主張したのは、ありとあらゆる性は規制される「べきではない」。ただし人に迷惑をかけないのであれば(=他人の権利を侵害しないのであれば)とうことであった。
サドのことがちらっと脳裏をかすめた。宮台氏の「ただし人に迷惑をかけないのであれば」とう言葉が、何かとって付けたもののように聞こえた。
鈴木水南子氏のトークには、正直感銘を覚えた。宮台氏もあまり心もこもった言い方ではなかった(というか、彼自身それほど心のこもった感じを他人に抱かせる人柄ではないのだろう)が、「感動した」と繰り返し述べておられた。
水南子さんの父親という人は文字どおり暴君で、自分は男尊女卑の家に育ったのだと最初に語った。自分には弟がいるが弟も「お姉ちゃんより僕の方がえらいんだよ。だって僕は男だからね」というような子供で、母親は「女は弱く男がいないと生きていけない」というような人だった。「違う」と思った。というのはいたってまっとうな水南子さんの感受性である。高校を卒業してからのOL生活では胃が痛くなるようなセクハラを受け、男性への不信感はますます募ってゆく。
以後、19歳でテレクラによる個人売春から始め、後にSMの女王様になった。この女王様時代、お客のさまざまな姿態に接し、彼女は男性観を変えていった。
「赤ちゃんになりたい」という客にそのようなプレイをするとその男性の瞳はみるみる澄んで赤ちゃんのような美しい瞳になったこと。もっともこの美しい瞳は背広に着替えた途端にどんよりと曇ったものになってしまった。またあるときはうなだれてなかなか口を開こうとしない客。しばらくたってその人は「癌の告知を受けた」と女王様であった水南子さんに告白する。水南子さんは男が「射精したいだけではない」のだと、SMの女王様になってやっと実感することができたと言う。
もちろん女王様は仕事なので、次から次へ数をこなして売り上げに貢献せねばならない。おざなりのプレイで時間を早めることも多々あった。心のこもらないプレイをして、男性を気の毒だと思った水南子さん。何万円ものお金を払わされて、失ったものを取り返しに来る男性たちに、失ったものを返してあげたいと思った水南子さんがここにいた。男性も人に見られ、誉められ、甘え、愛されたい。強がってばかりいたら消耗してしまう一人の人間として、数万円を支払わざるを得ない男性客は、単なる射精マシンなどではなかったのだ。
高橋判明監督の「愛の新世界」という映画の主人公を思いだした。主人公はSMも女王様で小劇団の女優兼パトロン兼劇団員たちの女王様つまり男優全員とカンケイしていて、実家にはカウンセラーの仕事をしていると告げていた。ところどころにアラーキーの写真が散りばめられていて、その写真がまるで青空のように突き抜けた印象を与えた。面白い映画であった。
ここに費やした行数を見て貰えば一目瞭然だが、わたしが感銘を受けたのは水南子さんであって、宮台真司センセイではない。彼は赤裸々に語るように見えて、彼なりに正直であろうとしていることは伺えるが、やはり彼の限界は自明である。彼はアーティストにはなれない。つまり人前で真に裸になって立っていられるのはアーティストだけなのだ。(宮台真司氏が「言葉を信じない」と書いたので、わたしもある種論理的伝達性を無視して書いている。わたしは「言葉、あるいは言霊を信じる」ことでしか成立しない人間だから。)つまり宮台真司氏の言葉はわたしの胸に響かなかったということである。
テレクラで100人と接しようが、1000人と接しようがわからないことはわからない。宮台真司にわからないこと。それは、人である。
宮台氏は性の状況を「50年前に戻したい」と言った。
「青少年向けの風俗があるといい」という氏の発言に対して、教師だという人が、「現在の性教育はそのようなことを否定しているのですが」と問いかけた。「今学校に期待している人なんていませんよ」というのが宮台氏の答えである。また「教師になるような人は性が脆弱だ」とも言った。
「お母さんが友達の息子に性の手ほどきをすればいい」と言った。
「性教育の行商人を作って全国の学校を回らせればいい」と言った。
最後の性教育の行商人という発言のみ、わたしは賛成する。50年前の状況というのが何を指して言っているのかわたしにはわからないし、売春防止法を廃止したいというのであれば、わたしはこれに反対である。法律がないと何をしてよくて、何をしてよくないかがわからない人間がいるのだ。この点に関してはわたしははっきりと人間不信である。正直な話、自分の親兄弟ですら信用するつもりはない。
青少年向け風俗があればいいという発言には、水南子さんが「誰が相手をするのですか? 粘膜を使ってするんですか?」と問うておられた。わたしも同意見である。
わたしのお母さんが友達とセックスをしたら、わたしはグレるだろう。わたしがお母さんで息子や娘の友達とセックスすると仮に仮定すれば、とびきりの美少年にしか関心がないだろう。10代のもてない男の子たちの状況はまるで改善されず、10代のそれでなくても女の子が寄ってきて困る男の子たちの状況は、より複雑なものとなるだろう。もてない男の子の救済のために、わざわざ自分の子供を傷つけるような真似をする奇特な母親はいないし、据え膳的美少年が目の前にいたとしても、馬鹿な真似は思いとどまるのが大人である。思いとどまれなかった一人の女の心の叫びは、文学の領域ではあり得ても、パネルディスカッションで語られる社会状況改善のための言説とは関わりのない話である。
言葉を信じない宮台氏の発言は、ときに無礼でもあり、余計なお世話である。ただ困ったことにこれらの発言はオモシロオカシイ。
ハプニングが2つあった。
一つめは「縁があって、AVビデオに出たことがあるのですが」という男性。自分は腹が出ていて女の人に相手にされないという彼の発言は、質問コーナーで出てきたものだがほとんど質問の体裁ではなく、単なる感情吐露。しかし人柄の良さそうな彼はいささか気の毒でもある。「大丈夫だよ。オッケーだよ。だってキミは、いいキャラしてんじゃん」と宮台氏は若者言葉で慰める。実際、他にどうすることもできない。
性は不平等である。もてない男の叫びを気の毒だと思っても、自分の粘膜を提供する女性はいない。どうにかしてくれと言われても、わたし自身はいかんともすることができないというより、するつもりは皆無なのである。彼に愛情を注いでくれるいい人が現れますようにと神様にお祈りし、責任を他の女性に転嫁する。ほっぺにキスぐらいならしてあげてもいいが、後でわたしはうがいをするだろう。金で買える性があったとしても、彼はあまりお小遣いのあるタイプには見えなかった。冷たいことをあえて言うが、彼を性的に救うことは、著しく困難である。これは、売春防止法があろうがなかろうが同じことだろう。性にばかり関心が向くように彼をしむけることのほうがむしろ罪悪である。念のために言って置くが、買春というのは基本的に相当の対価を必要とするのだ。
二つめは、アサノさんという女性。水南子さんのご友人らしい。先の一つめの男性もバクシーシ山下という人のビデオに出演したらしいが、この女性の発言はバクシーシ山下氏のレイプビデオに出演した女優さんに関するもの。バクシーシ山下という名前をどこかで聞いたことがあるように思うが(インターネットで検索すれば出てくるだろう。。)、わたし自身は彼が何者か、彼のビデオがどのようなものか、全く知らなかった。宮台氏の過去の発言に噛み付く発言だったと思われるが、これらすべてに関してわたしは無知であった。
「ビデオを撮るという名目の下に何をしてもいいのですか!」
アサノさんは声を荒げ、それに応じる宮台氏との罵り合い!
バクシーシ山下のビデオなるものを見た上で、何らかの感想を書くべきなのかもしれないが、かつてAVビデオを友達(女性)と見て、興奮するよりは怒りを覚え、しかも性欲どころか、食欲までなくしたわたしの精神にはおそらくあまり好ましくないおのであろうと思われるので、止めておくことにする。
もっとも今わたしの枕元には「ソドムの百二十日」(マルキ・ド・サド)の完訳本があるのだけど。。ま、これは別の話題。
バクシーシ山下というのは、撮影の名目の下に男優に女優をレイプせよと命じるAV監督ということらしい。どのような契約書を取り交わしたのかわたしは知らないが、女優にせよ、男優にせよ、バクシーシ山下を法的に訴えることは可能なのではないだろうか。そもそも契約がむちゃなものであれば、そんなものは無効だろう。わたしが殺されるところをビデオに撮って欲しいので、わたしが殺されるところをビデオに撮ってくださいとわたしが契約してわたしが殺された場合、わたしを殺した人、ビデオを撮影した人、またそれに協力した人は、気の毒なことだが罰せられる、はずである。そもそもレイプされることを望むというのは不可能なのだ。望んでいるのであれば、それはレイプでも何でもないのだから。
これはわたしの単純な感想だが、そのバクシーシ山下という人はきちんと逮捕してあげた方がご本人のためになるのでないだろうか。
マルキ・ド・サドは27年間も牢獄にいたのだ。サドは気の毒だが、サドが牢獄にいなければ文学の極北は生まれなかった。バクシーシ山下の発想には恐ろしいものが潜んでいるようだ。牢獄でペンを執ったらどうだろう。彼の想像力を羽ばたかせるのに何の障害もない。その場限りで女優もしくは男優と称する弱い立場の人間(恐らく演技についての何の訓練も受けていないであろう人間)を、生け贄にする必要はないように思う。
2つのハプニングを交えて、パネルディスカッションは終了した。水南子さんの最後の言葉「悲しい」。これは宮台さんとアサノさんの罵り合いを受けてのこと。
宮台さんとのディスカッションに出るか出ないかを水南子さんはだいぶ迷ったのだと言う。「議論はしない」が彼女が心に決めたことだったらしい。
「わたしは男性に甘いと言われるんですが」と水南子さんは言っていた。
レイプをできない宮台真司氏は、なぜ他の男性に向かってはっきりと、「レイプをするな」と言わないのだろう。もっとも買春をしてもいいと思っている彼には、レイプをするなとは言えないのかもしれないが。
「ありとあらゆる性は許容されるべきである」と宮台氏がまず主張するのなら、
わたしはそれより先に、
「性に於いて他人の権利を侵害するべきではない」ということの方をまず主張したい。こちらに括弧を付けて貰っては困るのだ。
性的リベラリストであるかそうでないかというのは、どうやらその人の経験に基づくらしいという彼の優越感に基づく発言を、わたしは嗤いたいと思う。性に関する経験を語るのであれば、量ではなく、その質を問題にするべきだろう。愛し愛され死んだ二人に、われわれは追いつくことが出来ない。われわれにできるのは、死んでしまった二人の前でただおろおろするだけだ。性は愛ではなく、むしろ死に裏打ちされている。だからこそ「性に於いて他人の権利を侵害するべきではない」のである。
レイプも買春もするべきではないし、売春がこの世に存在したところで、腹の出ているAV男優経験者を救うことなどできるはずもない。救済があるとするのであれば、それは全くもって他の場所にある。もし性の場にどうしても見出したいと彼が望むのであれば、それは恐らく命がけの話になるだろう。
水南子さんはこんなことも言っていた。自分が性産業に従事していたことを「自己決定ではない」と言われれば、わたしは「オレが決めたんだ!」と言うだろう(このオレと言ってしまいたくなる感覚がとてもよくわかる)。また同時に「自己決定したのだからいいじゃないか」と言われれば、「ちょっと待ってくれ」と言いたい、と。
水南子さんがWeに書いた文章を引用しよう。
−−「行かないで。あなたは本当に大切な人なんだからね」と伝えてくれる大人がいてくれたら、こんなメッセージを決して諦めないで伝え続けてくれる大人がいたら、セックスワークを選択することはなかったかも知れません。−−(『くらしと教育をつなぐWe』1997.8.9 特集「売春は悪いのか?」より)
「売春という自己決定」が可能であるような環境が存在することを、わたしは憎悪する。
男性はさまざまな性にありつきたい、のかもしれない。しかし、それを女性に提供せよと彼らが主張することは、女性にとっては迷惑な話なのである。つまり、「性に於いて他人の権利を侵害する」ことなのだ。
ディスカッション終了後、水南子さんは観客の恐らく知人と思われる女性と固く抱き合っていた。「じぶんでじぶんをしつける辞典」のアドレスを手渡したいと思ったのだが、つい話しかけ損なってしまった。
水南子さんの今後の活躍を応援したい。
彼女の推進する「現役・元セックスワーカーのためのピア・カウンセリング」へのカンパを募集していたので、ささやかな協力ではあるが、ここに紹介することにする。
郵便振替口座:00190-5-11778 「ピア・カウンセリング for SW」
ちなみに、ピアとは「仲間」という意味だそうである。わたしも彼女たちと同じ人間(=生き物)であることをつけ加えておく。
98.11.1 山口あずさ
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