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水彩絵の具

小学生の頃、図工の授業で荒川の土手に写生に行った。
たぶん5年生くらい。
わたしの着ていた白いカーディガンに友だちの絵の具がついた。
水性絵の具だから洗濯すれば落ちる。
子供にもそれくらいの知識はあって、友が言ったのである。
「これで手を拭いてもいい? 後でちゃんと洗って返すから。ね、いいでしょ?」
丁寧な申し入れであった。
わたしはお断りした。
カーディガンは手拭きではないからである。
家に帰って母にそのことを話すと「そんなことしたら、落ちなくなっちゃうわよ」と言われた。
水彩絵の具が服に付いた場合、洗えば落ちる。
水彩絵の具が服に付いた。
洗えば落ちる(はずな)ので、これで手を拭く。
が、しかし服はそもそも手を拭くものではない。友達の服で手を拭くのは無礼である。
もし自分の服で友に手を拭くことを許せば、わたしの沽券にかかわる。
また友にそのような申し出をするのは、全くもって考えのないことである。
けれども、これは30数年間生きてきて、やっとまとまった考えであって、小学生はそこまでは考えがまとまらない。わたしはもやもやとただ「いやな感じ」を抱いたのみである。
半年くらい前に論理学の入門書を読みかけたことがある。
わたしの頭は論理学に向くようにはできていない。
欠けているものを補おうと殊勝な考えを抱いたが、興味はすぐに他に移ってしまい、わたしは論理学的思考をできないままでいる。(本を一冊読んだぐらいでは、いずれにせよできないだろうが。。。)
ところで、わたしの頭は売買春にとりつかれてしまっている。
何か寓話を見つけるとこれを売買春に結びつけて考えたくなる。
マグロのように寝転がっていれば何も傷つくことなく金になる。
金を貰った。
何も傷つくはずはない。
まちがっている。
彼女はマグロのように寝転がっているだけで、自分は彼女を傷付けるつもりはない。
金を払った。
彼女が傷ついているはずはない。
まちがっている。
セックスワーカーが言うかもしれない。売春によってわたしは傷付かない。買春夫はお客さん。買春夫によって傷つくほどわたしは脆弱ではない。よってわたしは自己の正当性を主張する。
いいでしょう。あなたの正当性をあなたに限って認めましょう。しかしあなたの主張を他の人に援用することをわたしは認められない。
わたしはセックスワーカーを攻撃していることになるのかもしれない。
しかし、わたしの居るこの場を崩してはいけないように思う。
わたしはこの狭量さを死守する必要を感じる。
宮台真司氏が言葉を信じないと語ったことが印象的である。
論理的に言葉を操ることには自ずと限界があって、言葉は時に跳躍を必要とする。
言葉の跳躍を端的に表現するものとして、わたしには俳句表現がある。
七面倒くさいことは抜きにしよう。
セックスワーカーにセックスワークをやめて欲しいと願うこと。
これがわたしのセックスワーカーに対する愛情表現である。

山口あずさ

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