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レイプに関するあれこれ

(※991120一部削除、訂正しました。)
以下は、レイプについて、考える他人さん、及びぷよさん他の掲示板にてのわたしの発言です。他の人の発言部分を抜いてありますので、その部分を加筆訂正してあります。

◎レイプとはなんぞや

わたしはレイプって、きっと胃カメラを飲んだような感じなのではないかと思う。
とても不快だった。
あれが相手に悪意があって、しかも、本来は幸福のために使われる部分で起こることを考えると想像を絶する。。。
野蛮だけれども、ぼこぼこに殴る等のリベンジをすれば、少しはすっきりするのではないでしょうか。。。
某掲示板で、切り取ってワニの3時のおやつにする、と書いたら、(@@;)というマークのお返事が返ってきました。
胃カメラという例えはへんかもしれないけれど、なんか内蔵をごちゃごちゃこねくりまわされる感じは、通常の性行為よりも胃カメラの方が近いような気がする。。。
「御直披(=おんちょくひ)」(板谷利加子著/角川書店)という本があるのですが、この本、性犯罪課の婦警さんと実際に被害にあった人の手紙のやりとりが紹介されていて、この中で被害者は「痛点」という言い方をしていました。
いずれにせよ、レイプって、いわゆる性行為などとは似ても似つかないものだと思います。
性行為とレイプの間をバシッと切り分けることができると、何かが変わるかもしれない。。。
被害者も少し楽になるかも。。。
美輪明宏が注射であれ何であれ体内に何かが入ってくるのは無礼だと以前発言していて、うむなるほど、と思ったことがあります。
わたし自身の胃カメラ体験は胃をレイプされたような気がした。
胃カメラであれば男性でも想像が届くのではないかと思うし。
ま、男性がホモセクシャルマッチョにレイプというのもあるだろうけれども。。。
もし、胃というのは実に神聖な内臓器官であり、ここに食品以外が挿入されるとその人の一生は台無しになる、というような環境があれば、胃カメラがトラウマになってもおかしくないと思う。
これを逆に考えれば、レイプをいわゆる一般的暴力にしてしまうことができれば、二次被害はなくなると思うのです。
わたしは胃カメラを挿入されたが、一生を台無しにされたわけではない。
レイプをされたからと言って、一生まで台無しにされる謂れはないはずです。
性行為とレイプは、断じて同じではないです。
絶対に違う。
同じように見えるだけです。

◎レイプ被害にあった人の恋人が加害者に復讐することについて

暴力的な男を愛せないというのは、この暴力が自分に向かうからではないでしょうか?
わたし自身は自分の中にも暴力的なものがあるし、切っちゃえよー、なんてゆうのは十二分に野蛮な発言だとわかって言っています。
ぜんぜん話はかわるけど、ホモセクシュアルの友人が、ある女性に「泊めて」と言われたことがあるそうです。
丁重にお断りしたらしいですが、この話を聞いて、「でもさ、もし泊めてあげたとしても女性に襲われるってことはないでしょ?」と聞いたところ、彼は、もしそうなった場合に僕は女性に暴力はふるえないし、、、と言っていました。
彼がもし、男に襲われそうになったら、迷わず殴ると思うけどね。
パワーバランスということを考えると、そうゆう男は俺が殴ったる、という男性の存在は必要だと思う。
わたしはむしろ中間にいてうじうじしている男の方がうざったいです。
もっと付け加えると、女性も鍛えて柔道何段とかになっちゃうというのもいいと思う。
これほど具体的かつ有効なフェミニズムもないでしょう。
護身術を教えてくれる道場もあるらしいし。

◎レイプを語るには

松浦理英子という作家がいて、何年か前に、レイプなんてたいしたことない、と被害者に言ってあげた方がいいのだ、という発言をして、物議をかもしたことがあります。
考える他人さんの掲示板で、レイプは悪意のある胃カメラを飲んだようなことではないか、と書いてみたのですが、いわゆる性的なことと、このレイプという暴力をなんとかして切り離して考えるというのも一つの方法なのではないかと思っています。
もし語るのであれば、なるべきできるかぎり無味乾燥な性的でない言葉で語る必要がある。
レイプ被害の告白と、ポルノはすれすれです。
レイプ被害の告白をしている女性のビデオを見ながら、マスターベーションをすることも可能なのです。
二重三重に被害が重なっていく。
もしこのような告白を男性が女性から受けたとすれば、それは一人の異性としてというより、人間として試されることになるでしょう。
重圧に耐えきれずに逃げ出すか、あるいは受けとめるか。
中学生だったNolphinさんは、まいこさんを受けとめたわけですが、これはもしかすると中学生だったからできたのかもしれない。
重圧に耐えきれずに逃げ出すという書き方をしましたが、「ごめん。俺は君を支えてあげられない。」と謝ってしまうのも一つの手かもしれない。
それじゃ枕を高くして眠れないというのなら、黙って受けとめる。
相談を受けた男性が加害者に復讐するというのは、気持ちとして嬉しいのではないかと思います。
だけど、いちいち個人がレイプ犯を殺す、あるいは痛めつけるというのも、物騒ですし、現実的ではありません。
あと、もし、被害者である女性に直接わたしが何かを言うとしたら、男は抱かれるものではなく、抱くものだよ、ということかな。被害者に留まっている必要はない、ということ。
性教育の最良のものは、恐らく、パートナーの意志の最大限の尊重だと思う。
相談された男性が、彼女を受けとめたいと思うのであれば、彼女の意志を最大限尊重してあげて欲しい。
性に関しては男性サイドが、うまく受け身に回れればいいのではないかと思います。
追記:強姦されて結婚するというのは、処女というのが重要だった時代に仕方なくなのではなかと思うけど。。。確かに女同士でもよくわかんねぇ奴はいることはいるが。。。???

◎ある友人の話

レイプにあった人の話を聞いたことがあるかと質問を受けました。
ない、と一瞬思ったのですが、ありました。
何年か前に友人からレイプにあったという話を聞きました。
でもこれは相談されたわけでも、泣きながら訴えられたわけでもありません。
たぶん、友達として、知っておいてくれ、というような感じだったと思う。
わたしは根掘り葉掘り聞かなかったし、彼女も概略だけを厳しい表情で話しただけでした。
今現在彼女とは付き合いがないのですが、恐らく、一般的な暴力とレイプを同一視するという意見に賛成してくれるのではないかと思います。
「レイプなんかたいしたことないんだ」と言った方がいいのだ、と主張して、松浦理英子(作家)は一時期物議をかもしましたが、被害者が立ち直る道としてはこの主張は正しいような気がします。
ただ間違えてはいけないのは、レイプは紛れもない暴力だということです。
わたしは、胃カメラ、という拍子抜けするような例えを出しましたが、レイプの話をするときに、最低限守られるべきことは、被害者のレイプ体験に対して、性的な感心を向けない、ということだと思っています。
単純な暴力、陰惨な単なる暴力として扱われるべき、だと考えます。
性の場面で陰惨な記憶が甦ることはあるでしょうが、犬に噛まれた人間が犬が怖くなったということを乗り越えることは決して不可能だとは思いません。

◎松浦理英子の発言

松浦理英子のそもそもの発言は終刊間際の「朝日ジャーナル」だったはずなのですが、今手元で見あたりませんので、笙野頼子との対談集の中から、そのあたりのことを話している部分を抜いてみました。
=========引用はじめ=========
「おカルトお毒味定食」(松浦理英子×笙野頼子/河出書房新社)より
笙野「たとえば、性交が全く何の自主性もなく行われた時に、心に痕跡が残る場合があると思いますか。以前に松浦さんが言った「強姦をされたら笑っちゃえ」というのは、男に向かって「ばかやろう」と言うかわりに言ったんだろうと思うんですが……。−−中略−−傷ついた事を男に楽しまれるなという戦略ですか?」
松浦「うん」−−中略−−「強姦というのはひどいことだ」という、被害者の物語に寄りかかってばかりいる言説が流布すると、たとえば強姦裁判で「この女は俺が強姦したんだけれども、一見取り乱しも何もしないし、激しい抵抗もしなかったし、わりあいに平然としていたから、これは合意の上だ」と被告側が訴えた時、その訴えが通っちゃうおそれがあるわけですよ。強姦された側のプライドというものもあるわけで、非常に腹が立っていて平然としてみせるということだってあるわけだし、抵抗したらもっとボコボコに殴られるから抵抗しないでやらせておいたということもあるわけです。だから、絶対に強姦はひどいことで、たとえば女は人格が破壊されるとかズタズタに傷つくということばかり言われていると、だめなんですよ。
 それが一つのイデオロギーに凝り固まっている人にはわからない。あえてわからないようにふるまうのかもしれない。こちらは向こうの言うことは全部わかるわけですけれどもね。」
笙野「被害者の立場をより深く考えると同時に、加害者の行為自体を独立した犯罪と考えようという事ですか。それだと加害者の責任だけを追求するのかしら。被害者の程度ではなく、まさに加害者そのものの悪として、とらえるのかな、うーん……。」
=========引用おわり=========

◎復讐について

今さっき、NHKの大河ドラマの再放送なんぞを見ていて、忠臣蔵ってようするに復讐劇じゃん、と思ったわけです。
何が正しいのかなんて確かにわからない。
忠臣蔵はとにかく無私であることが美しいのであって、殺人が美しいとも思えない。。。
無私が美しいのであれば、収賄罪で告発された企業人が仲間なり上司なりを庇って首を吊ったりすることも、褒めてあげた方がいいのかもしれない。。。??
ま、いずれにせよ、気が済まないことに対しては、気の済むようにするしかないのかもしれない。
じぶんが当事者だった場合、つまりレイプ被害を相談された人だった場合のことをあれこれ考えて、加害者に対して素手で暴力をふるうのは無理だけれでも、何らかの形でリベンジを考えることも可能かもしれないと思いました。
自分がやくざ様の姐さんかなんかだったら、腕に自信のありそうな手下を何人か連れて、ぼこぼこにする、とかなりすっきりするかもしれない。
(他人事だと思って茶化しているわけではありません。)
劇画チックな想像をして申し訳ないのですが、恋人のために殺人を犯した考える他人さんが刑期を終えて刑務所から出てくるの図を想像すると、ちょっと高倉健かもしれない、と思ったりしました。(←勝手なこと言ってすみません。)
あと、胃カメラの例えですが、これが実感を欠いているであろうことは承知の上で使っています。
いずれにせよ、被害者に対して親身になることの第一歩として、「性」と「暴力」を切り離して考えるということが、一つの手法だと考えています。
自力ではなかなか切り放せないだろうから、回りから切り放す手助けをする、という感じでしょうか。
ちなみにシモーヌ・ヴェーユが「教育はその大部分が子供たちに条件反射を教えることから成り立っている」と書いています。(ちくま学芸文庫『ヴェーユの哲学講義』より)
レイプ被害から受ける条件反射に対して、そうでない条件反射(愛と一致した性)を時間をかけて学びとることは可能だと考えています。

◎聖暴力

レイプについてあれこれ考えていて、犯人と被害者の親和性ということを考え出しました。被害者が犯人に対して、たとえ一瞬でも親和的な感情を抱いた場合、加害者は「女も楽しんだ」と言い出す。第三者までが、和姦ではないかと加害者に荷担したりする。
恐らくこの一点のみが、他の暴力と性暴力の違いだと思う。
もっとも誘拐犯に誘拐された人が同情してしまうなどというのもあって、これもきっとこの感覚に近い何かなのでしょう。
で、わたしが思うに、この被害者が加害者に抱く親和的な感情というのは、「性」ではなく「聖」的な感情なのではないかと思うのです。
女性性というものは、男性性を受け入れるようにできていて、これは強姦されていもいいのではなく、だからこそ、強姦などをしてはいけない何かなのだと思います。「愛」というものを一切の暴力が無効になる何らかの地平と考えたときに、暴力によって「愛」を手に入れることは不可能なのです。「愛」は暴力のふるえない何かであって、暴力はこれを屈することはできない。ありとあらゆる人間の可能性はここにあって、通俗的に「愛が一番大事」と言ってしまうことには抵抗がありますが、暴力が無効になる地平としての「愛」について考えれば、いかにレイプというのが恐ろしい犯罪かがわかると思います。これは個人に対するものではなく、人間の本質的「聖性」に対するものです。この被害者、神ならぬ身の被害者がひどい精神的外傷を残すことも当然と言えば当然です。が、しかし、この犯罪は人間の本質に対する犯罪であり、個人でこの「聖的」犯罪を受け止める必要はない。したがって、そのひとつの方法として、性暴力を単なる暴力として裁くべきだと考えています。

◎回復の手だて

回復の手本のような存在が必要なのかも。
パラリンピックを見て勇気づけられるようなことが、性虐待にも必要なのかもしれない。
けれどやはりこの被害は隠す方向に行ってしまいがちで、これは当然だと思うのですが、となると、インターネットというのは、やはりすごい可能性のある媒体だと改めて思います。
徹底的に匿名であることによって、性犯罪をオープンに語ることができる。
性に対する世間一般のイメージも非常にあやふやですので、さまざまな人が匿名という平等の元で語ることができれば、世間一般のイメージも改善されてゆくのではないかとも思います。
酷いことを言い出す人もいますが、そういう人は、罵詈雑言に適性のあるわたしのようなのががんばる^^;こともできるし。。。
性暴力を「軽く考える」ということには方向性が必要なのかもしれません。
他の人とのつながりを断たれてしまうようなことでは断じてないのだ、という点に於いて、被害をそれほど重大なもの、つまり自分を取り巻く世界から完全に疎外されたわけではなく、加害者に対しての信頼は失われてしまったにしても、他の人達への信頼を取り戻すことはできる、という意味において、人生をだいなしにされたのではないという姿勢はとれるのではないでしょうか。
オノ・ヨーコがジョン・レノンと結婚する前だったと思いますが、観客にハサミを持たせて自分の着ている服を切らせるというパフォーマンスをしていたことがあって、わたしはここに「信頼」を感じるわけです。
他人にハサミを持たせるということは怖いことですし、ハサミを持って他人の服を切るのも怖いことです。観客は絶対にオノ・ヨーコさんの身体を傷つけないようにハサミを使ったと思うし、中には少し危ない使い方をした人もいたかもしれない。
それでもだまってじっとして服を切られてゆく。
オノ・ヨーコというのはビートルズの印象が強すぎて不当に評価されているように思いますが、すごいアーティストだとわたしは思っています。
あと、最近はちょっと見ていないのですが、「わたしを動かしてください」という看板と一緒に、新宿とかに立っているピエロのお兄さんもわたしは愛しています。
もっとも、彼らが人目につくところでパフォーマンスを繰り広げていることにも意味があると思います。人間は他の人の目につかなところで悪事を働くのです。
ピエロのお兄さんは、人通りの少ない路地に立っているわけではありませんし、オノ・ヨーコさんは観衆に見守られていたと言うこともできるでしょう。
悪い人間に出会ってしまって、その悪い人間が自分の家族だったりすると、世界を見る目も影響を受けてしまうのは当然ですが、彼らのパフォーマンスが成立すること自体が、この世界すべてが信頼のおけないものではない、ということを知らせてくれるような気がします。
信頼のできる個人は存在するし、信頼のできない人間も衆目の前では信頼に足る行動を強要される。人間って捨てたもんじゃない、と思っています。
そして、サバイバーのみなさんの可能性こそが、われわれ人間すべての可能性ということになるのではないかと思います。

山口あずさ


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