今回は最首悟氏(現:恵泉女子大)の「弱さ」についての話を下敷きにしながら、時節柄の話をしたいと思う。
平等と義務からのアプローチ
ジャン・ジャック・ルソーと安藤昌益の共通点については広く論じられているとおりである。昌益が「すべての人間が自然に即応して生きるべきであり、生産の収穫を平等とする世を創造するべきである」と説き、ルソーは、『人間不平等起源論』において、「原始時代には、私有のない人間の平等な自然状態があったとした。そしてそれが破壊され、矛盾に満ちた社会状態へ移行した」と考えた。私達は、先達の創り成した社会の構成者となるかならないかという本来的な選択をする権利を有し、構成者となるのであればその社会の発展の為の義務を負う。そうでないのであれば、その社会を変革する義務を負っているのであるから、自由や権利の背景には義務を負うことが条件なのである。そして平等である社会、つまり昌益が説く「人間と自然との相互依存関係によって成立する社会」に今回は「人間と人間との相互依存関係によって成立する社会」ということを考えて行きたい。
イスマル・アルマサワビーの遺書(23歳、大学生、6月下旬ガザ北部自爆テロ。車に仕掛けた爆弾でイスラエル兵2名殺害)。朝日新聞01.9.15
「同胞たちよ。私は不帰の旅路に出ることを決めました。この、虫の羽ほどの価値もなく、影のように消えてしまう、楽しみの少ない世界に戻ることはないでしょう。(中略)私は武器をとって、殉教者の道を進み、ユダヤ人が我々の息子たちを毎日殺しているように、彼らに破滅と破壊を味合わせるでしょう。(中略)父よ。大学の学問を修了し、世俗の職業につくことができなかったことをおわびします。しかし、私は殉教者としての地位を神に与えられました。我々と神の敵を恐れさせる聖戦の任務が本日やって参りました。天国でお会いしましょう。」
正義と神が関わる世界。しかし「この、虫の羽ほどの価値もなく、影のように消えてしまう、楽しみの少ない世界」という表現の何とも痛ましいことか。そう表明せざるを得ない現実に身を置いているという哀しい世界からの言葉。
アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュの演説
「正義・公正・自由のために・・・・・神の御加護があらんことを」
どちらも、地域、社会、国家の規範を正義と神に求めているという共通点があり、それが問題なのだ。私は考える。正義・公正・自由の替わりに平等・公正・義務としたい。平等はその理念の中に正しさを持つ。義務は自由である為の条件なのである。自分らしく在りたい(自由)。自分らしくあるためには相手は相手らしくある必要がある(平等)。相手が相手らしくある為に自分は何をすべきであるのか。それは戦争をすることではないことは確かなことのようだ。
「弱さ」からの出発
弱者とは誰のことなのか。弱者とは私のことである。しかし、本当に私が弱者なのか強者なのかは、私が1人の存在である限りにおいて決めることはできない。超越存在(例えば神のようなもの)の視点から見れば、私が弱者なのか強者なのかが明らかとなるであろうが、その超越存在を捨象してしまった場合、私の存在そのものが不明確、不明瞭なものになってしまう。「我思う故に我在り」という訳にはいかないのである。自分の存在とは他者の記憶にあるのではないかと近頃は考えている。記憶とは過去のことではなく、過ぎ去らなかったもののことだ。心の中に留まり続けているもの。それが記憶なのである。私は他者の記憶の中に存在しており、他者が存在していなければ私も存在しないのだ。私はそもそも1人という事態では存在し得ない。私の存在ということや私が生きていく為には、もう1人の人つまり他者が必要なのである。私は他者に依存する存在であって、他者を失っては生きていけないのである。私と他者との関係は常に(TPOに応じて)、「弱者」であったり「強者」であったりする。他者が「弱い存在」であるならば、私は他者を守り、かばうであろう。しかしそれは私が「強い」からではなく、私は他者に依存する存在であるが故に他者を失ったら生きていけないから、他者がそこに居て貰うために行動しただけなのだ。他者は弱いかもしれないが、実は私はそれよりも弱いのである。だから「強さ」と「弱さ」は相対的に評価するまでもなく、「強さ」の中に「弱さ」があったり「弱さ」の中に「強さ」があったりもするのだ。その変容を理解しつつ、「弱さからの出発」ということを理解したい。
私達の生きなければならない社会は、「正義」を振りかざすことを求めない。その換わりに「平等」である社会でありたい。近年、弱者は切り捨てて、何か効率の良い社会になろうとしている観があるが、私達の生きなければならない社会では、弱者は排除して急いで進んでいく必要はないのであるということを納得したい。
国境を越える種子、植物を我々農学の業界では帰化雑草(外来雑草)と呼ぶ。セイタカアワダチソウ、ブタクサ、イチビ等。こいつらの防除の困難さを多くの雑草生物学者や農家が知っている。自由に国家や国境を越えて植物が生きていく様は、私達ががんじがらめになっている国家や国境といった概念の虚しさを教えてくれているのだと思う。
20011109 服部眞幸
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